2023/11/29今週の一言

11/26墓参・召天者記念礼拝のお話(ヨハネ20章11-16節)

わたしたちは今、泉バプテスト教会に連なり、先に天に召された方々を記念するために集まっています。わたしたちが墓地を管理して、毎年ここに集まる根拠は十字架と復活のイエス・キリストにあります。

 「横死」と呼ばれる死に方があります。不慮の死や非業の死などの場合に横死と呼ぶのです。キリストの十字架も横死の一種です。身の危険を覚悟しながらも二人の弟子(ヨセフ、ニコデモ)が墓を用意しました。師匠イエスへの愛から出る行為です。二人の勇気をリレーして同じく身の危険を覚悟しながらもマグダラのマリアという弟子は、イエスの遺体を世話するために、朝早くその墓を訪れます。これまたイエスへの愛のための行為です。しかしそこにイエスの遺体はありません。マリアは泣きます。

嘆くマリアは暗い墓の方をずっと見ていました。そこにはイエスはおりません。よみがえらされたからです。

マリアは振り向きます。そこにイエスが立っているのが見えますが、イエスと認識できません。イエスが話しかけてもマリアは気づきません。しかし、イエスが「マリア」と彼女の固有の名前を呼び、かつ、その声に振り向いた時に気づくのです。イエスはよみがえり、墓の外から自分を名前で呼び掛けている、と認識できました。

 教会が墓を管理する意味は、極めて逆説的ながら、墓の後ろから自分たちの名前を呼ぶ復活の主の方向に振り向くためです。死を見るところから、復活の命を見るためです。わたしたちが信じている神が、死んだ者の神ではなく生きている者の神であることを認識するためです。死者たちは実はイエスと共に今も生きていることを確認するためです。

わたしたちもマグダラのマリアの故事にならって、毎年の墓参・召天者記念礼拝を続け、先に召された人々を誠実に覚え続けましょう。そして共に復活の永遠の生命を味わいましょう。 JK