今回はサウル・パウロという男性。キリキア地方の町タルソス生まれのユダヤ人です。親から部族の英雄サウルというヘブル語名と、パウロというギリシャ語名とを授けられ、またローマ市民権もおそらく親の代から取得しています。
少年サウルはエルサレムに住む姉夫婦を頼り、ファリサイ派の大律法学者ガマリエルのもとで学びます。彼が30歳ごろエルサレムでナザレ派(キリスト教)が誕生します。イエスという人間をメシアと信じ礼拝し、旧約正典に対して独特の解釈を施す教えに、サウルは反発しキリスト者たちを激しく迫害しました。
しかしある時サウルは、白昼夢の中でイエスに出会い、復活のイエスを主と信じるキリスト信徒に転向します。ナザレ派の中でも国際的なアンティオキア教会に属し、その系列の教会をギリシャ語圏に拡大する働きに奔走します。
40-50歳代となったパウロは大都市に住むユダヤ人たちが設立した会堂を訪れます。ナザレ派に転向させるためです。会堂所蔵の聖書をもとにキリストを論証する、論争的伝道手法に彼の激しい性格が伺えます。その激しさは、ペトロ、バルナバ、マルコら並みいる同労者たちに向けられることもありました。
伝道の旅と同時にパウロは自らの系列の教会に対して手紙を送っています。ギリシャ文化との折衝、ユダヤ教正統との対峙、ナザレ派内部での立ち位置など、各教会が直面している課題に対する自らの態度を示すためです。彼は筆まめです。投獄されているときでも手紙による活動は続けられます。論敵も多かったけれども、彼を物心ともに支え彼の手紙を運ぶ同労者も多かったのです。
パウロは諸教会から集めた献金をエルサレム教会に捧げた直後に、エルサレム神殿で捕縛され、長い裁判の末にローマで処刑されました。60歳代前半の殉教と推測されます。ローマ市民権を用いてローマ皇帝に上訴しなければ殺されなかったと言われます。イエスの十字架への道が彼の模範でした。JK