今回はフルダという女性です(列王記下22章14-20節//歴代誌下22-28節)。紀元前7世紀、南ユダ王国の首都エルサレムで活躍した預言者です。
ヨシヤ王の治世(前640-609年)、「申命記改革」という政策が採られました。それは申命記を指針とした行政改革です。申命記を最高法規に据え、「ヤハウェの神のみを愛せよ」という指針に基づいて、礼拝施設をエルサレム神殿のみとするのです。そして、エルサレム神殿以外の礼拝施設(地方聖所や異教の「高き所」など)を破壊します。当然それは、エルサレム神殿の中にすらあった神々の偶像を徹底的に排除することでもありました。
ヤハウェ礼拝への集中は、地方聖所のレビ人(宗教者/さばきづかさ)たちを、行政官(裁判官)に任用する行政組織の改編を同時にもたらしました。さらに、滅亡した旧北イスラエル王国領土への軍事占領をも促しました。地方聖所・偶像がそこに多くあったからです。ヨシヤ王はこれらを強力に推進しました。
フルダには行政官であるシャルムという夫がいます。彼女たちはエルサレム城内のミシュネ地区に住んでいました。政権を担う行政官たちが多く住んでいた地域だったのでしょう。フルダは、ヨシヤ王を擁立した政治集団の一員であったと推測できます。「国の民(アム・ハ・アレツ)」といいます(王下21:24他)。国の民は、ヨシヤ王の祖父マナセ王の半世紀にわたる統治下で(前692-642年)、預言者たちとともに弾圧されました。「ヤハウェのみ」という主張が、マナセ王権に反するものだったからです。マナセ王の息子アモン王暗殺(前640年)という混乱に乗じて、国の民はアモン王の息子である、8歳のヨシヤを王に据えます。
前622年、長年かけて国の民が策定した計画に則り、フルダは預言者としてヨシヤ王権の立てた肝入り政策・申命記改革を公認します。ヨシヤ王の戦死(前609年)は報じられていますが、政治指導者フルダの最後については不明です。JK