今回は、使徒言行録6章に登場するやもめたちです。
「さて、これらの日々において弟子たちが増えて、ヘブライ語話者に対するギリシャ語話者の不平が起こり続けた。なぜならば毎日の奉仕において彼らのやもめたちが比べられ続けていたからである」(使徒言行録6章1節私訳)。
新共同訳・聖書協会共同訳等と異なり、原文は「ユダヤ人」と明記していません。私訳のように、使用言語のみに焦点を合わせることも可能です。そしてこの場合のヘブライ語話者とはアラム語話者(当時の公用語の一つでもあり、ユダヤ社会の日常言語)という意味でもありえます。新約聖書において、「ヘブライ語」という単語はアラム語という意味でも混同して使われるからです。
ペンテコステで生まれた教会はユダヤ人のみによって成ったのでしょうか。2章41節でバプテスマを受けた三千人は様々な地域出身者であり、ユダヤ人のみではなかったと明記されています(2章8-11節)。そこに列挙された地域で用いられている公用語は、大別してアラム語かギリシャ語です。
「やもめ」は、男性使徒たちと比肩しうる「職分」だったと推論する学者もいます(Ⅰテモ5章9節以下参照)。「毎日の奉仕(ディアコニア)」が、女性たちの仕事を指す場合に、「もてなし」「配給」「給仕」などと翻訳されがちです。「日々の分配」という翻訳(新共同訳他)には、翻訳者の持つ性役割意識が現れているのです。ディアコニアというギリシャ語は、教会員がなす全ての奉仕を含んでいます。たとえばこれは「主の晩餐の執行」「説教」という奉仕をも意味しうるでしょう。
アラム語話者のやもめ職につく者たち(マグダラのマリア、イエスの母マリア、ベタニヤ村の姉妹ら)と、ギリシャ語話者のやもめ職につく者たちが、何かにつけて教会の中で比べられ競合させられている状況が初代教会の課題だったのではないでしょうか。教会は常にペンテコステの日の奇跡を希求する集まりです。JK