<今週の一言>
3月2日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書10章16-25節を学びました。この記事の大半は、マルコ13章9-12節を基にしています。ちなみにルカ21章12-17節は、マルコ13章9-12節を、マタイよりも忠実に踏襲しています。マルコ・ルカはどちらも「世の終わりについての教え」という文脈だからです。
それに対してマタイは、十二弟子をいやしの活動のために派遣する場面に(福音書全編の中盤にあたる)、「迫害を予告する」イエスの訓話を、「前倒し」しています(マタイ24章は分量を削った二重記事です)。この編集によって、弟子たちの活動にも世の終わり直前のような緊張感が与えられます。このような編集方法でマタイは、福音宣教・世界のいやしに携わるマタイの教会の信徒たちを、励ましているのです。彼ら彼女らの直面する迫害は予期された出来事となります。
この全体の見取り図から、マタイ独自の細かな編集も説明されます。マタイは別文脈にあった二つの伝承を、16節に配置します。「狼の群れの中に羊を送り込む」という譬えと(ルカ10章3節)、「蛇のように賢く鳩のように素直であれ」(トマス39)という訓話です。迫害という現実の中で、現実との折り合いをつけながらしたたかに生きることが勧められています。
23-25節もマタイにしかありません。ここで、マタイのイエスは「一つの町で迫害されたら、他の町へ逃げて行きなさい」という妥協的な教えを述べます(23節)。そして、「弟子は師にまさらない」という言葉によって、逃げても構わない理由付けを補強します(24-25節)。このようにして、マルコ13章から受け継いだ、「裁判所でも死ぬまでキリストを証すべし」という非妥協的な態度を緩和します(22節)。
マタイは妥協的な態度を勧めることによって、真の悪が何であるのかを指示します。キリスト者であるというだけで親子兄弟から密告され、官憲に引き渡され、そこで拷問を受ける社会は異常です(17-21節)。個々人の暴力性だけが問題でもなく、ましてや密告した者や信仰を棄てた者が問題なのでもありません。そのように仕向けている社会の仕組みや、その社会を温存することで利益を受けている権力者たちこそが、真の悪です。
殉教を美化する時に、殉教を強いる者たちが免罪されたり、いのちを守るために殉教しなかった者たちが断罪されたりすることに懸念をもちます。真の悪をこそ批判し、殉教を強いない社会をつくりたいものです。 JK