大相撲についての随想を一言。
今だから言うわけではありませんが、わたしは春場所前から照ノ富士を応援していました。遡れば、彼が左ひざの負傷をしてからずっと応援しています。さらに遡れば朝青龍を含めすべてのモンゴル出身力士、高見山から始まり武蔵丸に至るハワイ出身力士等、外国出身の力士を一貫して応援しています。特に自分が三年だけとは言え外国に暮らし、被差別の経験もして、その思いは強まりました。
そのようなわたしから見ると、最近の稀勢の里フィーバーは非常に気味の悪い現象です。一例を挙げます。
十四日目、大関・照ノ富士は、関脇・琴奨菊を立会の変化によって破りました。この勝負を不満とする観客から「モンゴルに帰れ」という野次が飛びました。立会の変化は大関という地位にふさわしくないとか、琴奨菊がこの一番に負けると次場所の大関復帰が不可能になるとかの意見もあり、照ノ富士は罵られたのでしょう。しかし、その日も医者通いだった照ノ富士の立場に立ってみれば、「左ひざの怪我を乗り越えて優勝を遂げたい」という言い分はありうることでしょう。
千秋楽、横綱・稀勢の里は、大関・照ノ富士に対して本割の立会で変化をしました。右への変化をした立会が不成立となり、次の立会も左に飛び、結果として突き落としで勝ちました。場内は沸き返り、照ノ富士の場合と異なり「牛久に帰れ」という野次は飛びませんでした。続く優勝決定戦、稀勢の里が小手投げで勝利した後は、「奇跡の逆転優勝」「貴乃花以来の新横綱優勝」など報道も賛美の嵐です。
「左肩の怪我を乗り越えて優勝を遂げたい」という稀勢の里の意思と、照ノ富士の言い分に違いはありません。また「立会に変化すべきではない」という規範は大関よりも横綱に厳しく問われるべきです。だから観客・報道の態度は不公平です。
もちろん好角家のわたしは、味気ない相撲よりも立会に真っ向からぶつかり合って攻防のある長い大相撲になることを、すべての取り組みで望んでいます。また、すべての優勝や昇進はめでたいとも考えています。稀勢の里が悪いのではありません。この国の根底にある民族主義が、大相撲の世界で露骨に現れ是認されていることを批判したいのです。そんなに「強い日本出身横綱がほしい」ならば外国籍の人の入門を許可しなければ良いわけで、出世だけは許さないとは何事でしょうか。
若手のホープである関脇・髙安と小結・御嶽海の片親はフィリピン人です。魁聖も祖父母が日本人である日系三世のブラジル人です。彼らにとって「日本出身」という言葉にどのような意味があるのでしょう。ガラテヤ3章28節参照。 JK