3/9今週の一言

3月9日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書10章26-31節を学びました。26節は、マルコ4章22節を基にしています(ルカ8章17節参照)。全体としては、ルカ12章2-7節とほぼ同じ内容です。マタイとルカが共有している「イエスの語録集」(未発掘なので口頭の伝承かもしれませんが、「Q資料」などと呼ばれます)からの引用でしょう。

なお、26節「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と、27節「耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい」と類似の言葉は、外典のトマス福音書にもある言葉です(トマス5、33)。元来は、文脈とは関係なく個別のイエスの言葉が伝承されていたことを裏付けしています。

逆から言えば、福音書記者マタイ(やルカも)は、自分の福音書を著す際に既存のマルコ福音書と、さまざまなイエスの言葉や活動の伝承を、自分の裁量で切り貼りして編纂することができたということです。現在の文脈を構成し、イエスの言葉に新しい風合いを加味したのはマタイの功績です。マルコは、たとえ話のことを隠されたものと理解していますが、マタイは異なります。

マタイ10章1節から11章1節は、「十二弟子を人々の癒し・宣教のために派遣する前のイエスの訓話」という一つのまとまりです。だから、マタイにとって隠されたものは、「イエスから耳打ちされた福音・良い知らせ」であり、十二弟子によってそれは明らかにされるべきなのです。マタイの、ペトロを頂点とする十二弟子中心主義が見えます。「キリスト教会の礎には十二人の男性弟子のみがいる」という歴史観です。

先週記した通り、福音の宣教・癒しの活動には迫害がつきものです。「神の国は近づいた」という良い知らせや、アウトサイダーたちの癒しは、強烈な拒絶反応をも起こす場合があります。殺されるかもしれません(28節)。家族から密告され、裁判所で死刑判決を受けることもあったのでしょう(17-21節)。それでも「恐れるな。語り続けよ、癒し続けよ」とマタイのイエスは励まします(26・28・31節)。

その根拠は、本当に恐れるべき方が別にいるという信仰の事実です。その方は「いのちの主」、イエスが「アッバ(お父ちゃん)」と呼びかけた神です。すべての被造物にいのちを与える方であり、ご自分の良い時にいのちを奪う方です。神への畏敬がわたしたちの背筋を伸ばします。 JK