4月15日の聖書のいづみでは、マタイによる福音書6章10節を学びました。
「主の祈り」にはルカによる福音書に並行箇所があります(ルカ11:2-4)。マタイとルカにだけ共通するイエスの発言を、専門用語で「語録資料」ないしは「Q資料」と呼ぶことがあります。両福音書の成立以前に、イエスの語録について文書化されていた(けれども現存していない)という学説です。文書化されていたか口頭伝承であったかについて学説は分かれますが、マルコ福音書以外にもQ資料/Q伝承があったということ、そしてマルコ福音書とQをマタイもルカも参考にしていたということは定説です。逆に言えば、ヨハネ福音書を誰も参考にしていないということでもあります。
マタイ版とルカ版「主の祈り」の相互比較は、元来のQ資料に何が記載されていたのかを探るために有益です。ルカ版には「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタ6:10後半)がありません。その一方で「御国が来ますように」(マタ6:10前半//ルカ11:2後半)は単語レベルで完全に一致しています。
この事実は、生前のイエスの真正の言葉は「御国が来ますように」だけであり、それをルカは忠実に記載し、マタイは若干の付け加えを施したという推測に導きます。「御心が・・・」の部分は、「御国が来ますように」という祈りの言葉を敷衍的に説明するマタイなりの解釈と言えます。つまり「神の国が来る」という事態は、「神の意志が地上に行われる」という事態の言い換えであると、マタイは言いたいということです。
マタイの主張は、「未だに神の国は来ていない」という考えを前提にし、それを強調するものです。それを「将来終末論」と呼びます。一方でルカは別の考えを強調します。「すでに神の国は来ている」というものです(ルカ17:21)。これを「現在終末論」と呼びます。この両者をまとめると「教会は暫定的な神の国である」ということになります。それは「神の意志を追い求めて実践する限りにおいて」という条件つきのものです。
神の意志とは「愛を行う」ことに他なりません。神は愛だからです。 JK