4/8今週の一言

今年は「敗戦70年」という年にあたります。「70年」は聖書の中ではどのような意味合いを持つのでしょうか。

大雑把に言うと、70年は「神の定めた十分に長い年月」の象徴です。たとえば、詩編90:10は人間の寿命を70年と詠います(イザ23:15も参照)。もちろんそれよりも短い人も長い人もいるでしょうけれども、70年は十分な長さと考えられています。モーセやアロンが80歳を超えて新しい使命を受けた意味について、改めて考えさせられます。聖書には相矛盾するような思想が入り混じっている例の一つです。

預言者エレミヤは「バビロン捕囚の期間は70年」と預言しました(エレ25:11-12)。ところで実際の年数は異なっています。第一次バビロン捕囚は前598年、第二次バビロン捕囚は前587年のことでした。そしてバビロンからの解放と帰還は前539年です。第一次から起算しても59年間、第二次からならば48年間にしかなりません。ここもやはり象徴的な数字として70を捉えるべきです。ユダヤの民は神の定めた十分な長さの苦役を引き受けなくてはいけないということ、その後に解放が用意されていることに、エレミヤの言いたいことがあります。なお実際にバビロン捕囚からの解放を経験したゼカリヤという預言者も、実年数を無視してエレミヤ流「70年」を踏襲しています(ゼカ1:12)。また前2世紀ごろに書かれたダニエル書も同様の立場です(ダニ9:2)。

ところで、明治維新1868年から1945年の大日本帝国の敗戦までは77年あります。これもまた十分な長さであり、もしかすると1945年から2015年までの70年間よりも、こちらの77年間の方がバビロン捕囚の期間との並行例になるかもしれません。何しろ聖書は厳密な客観的長さという意味よりも、象徴的な意味で70という数字を使っているのですから。

この捉え方の利点は「明治維新の美化」を防ぐことにあります。「脱亜入欧と植民地支配」「殖産興業と労働者搾取」「廃藩置県と中央集権」「立憲君主制と皇民化教育」など負の要素があることを忘れてはいけません。徴兵・徴用される民にとって、明治維新は苦役の始まりとも言えるのです。そして敗戦こそ一種の解放であるとも言えます。 JK