4/20今週の一言

4月20日の「聖書のいづみ」では、出エジプト記25章10-22節を学びました。「主の箱」「神の箱」「契約の箱」「聖櫃」などと呼ばれる祭具の作り方が定められている箇所です。

箱は「神がそこに座っている場所」と観念されます(22節)。この観念は、高度に抽象化された「霊である神への信仰」にとっては、喉に刺さったトゲです。目で見えず・耳で聞こえず・手で触れない神が、どうして箱の上に座るのでしょうか。

全世界の創り主であり歴史を支配する神という信仰とも衝突します。人間が箱を用いて神を呼び出すことができるのか。もしそれができるのならば、呪術と何の違いがあるのか。「絶対他者」としての神が、自動販売機の缶ジュースのように扱われてしまいかねません。

さらに箱にケルビムという飾りがあるので、多神教信仰との関係で問題になります(18節以下)。ケルビムとは、翼を持つ半人半獣の神話的・天使的存在です(エゼキエル10章)。単数形はケルブと言い、多くの場合に複数形ケルビムを用います。複数のケルブたちの間に神が臨在するという表現は、多くの神々の真ん中に主神が君臨する多神教信仰とほとんど差異がありません。

箱は数奇な運命をたどります。軍神ヤハウェの臨在を象徴するものとして戦争に駆り出され、奇跡的勝利の要因とみなされたり(ヨシュア6章)、逆に敗戦後戦利品とされたりもしました(サム上4-7章)。その後ダビデ王によって南北王国・エルサレム都市王国連合の象徴として政治利用もされました(サム下6章)。ソロモン王によって神殿の至聖所に安置されると(王上8章)、「エルサレム不落神話」にも利用されました。そしてバビロン捕囚・神殿破壊と同時に焼失しました。

箱の歴史記述は、イスラエルが、自ら保持していた呪術的信仰・多神教的信仰・信仰の政治利用に対して、反省的であることを示しています。つまり、箱の歴史は反面教師です。手痛い失敗を通してイスラエルは、神ご自身と、神を象徴する物とを厳密に区別する信仰へと成長していきました。

わたしたちが今日考える「洗練された唯一神教」の形成途上に、イエス・キリストがイスラエルの中から登場します。人の子イエスを神の子キリストと信じることは、箱の歴史を自省するイスラエルにとって高いハードルです。「三一神教」はブーメランのようにケルビムの間に臨在する神に接近します。二・三人イエスの名のもとに集まる交わりの只中に、復活の霊の神が居られます。見えない神の交わりと、人間同士の見えない信頼関係の間に、神が居ると捉えねばなりません。JK