4月22日の聖書のいづみではマタイによる福音書6章11節を学びました。
「主の祈り」の前半部分には「下敷き」があります。ユダヤ人たちがお祈りや発言の区切りや合間に挿入する「カディシュの祈り」と呼ばれる定型文です。以下、全文引用します。
大いなる御名があがめられ、聖められんことを、御心のままに創造された世界にて。
その御国が汝ら生涯と汝らの時代において、またイスラエルのすべての家の生命あるうちに、一刻も早く実現されんことを。
(これに対して人々は)アーメン(と唱えよ)。
主の祈りの前半は、カディシュの祈りに対する批判的応答です。イエスの言いたいことは祈りを可能な限り短くせよということです。それはマタイの文脈にも適っています。「くどくどと祈るな」という教えが前置きにあるからです(6:7)。
そして主の祈りの後半は、カディシュの祈りにはありません。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」以下は、イエス独自の祈りと言って良いでしょう。直訳風私訳は「わたしたちの来る日のパンを今日与えてください」です。
マタイ版とルカ版を比較すると、一点重要な違いがあります。「今日」と「毎日」の違いです。なお文語訳「今日も」は両者を調整するための翻訳であると推測します。ただし文語訳「日用の」は上手い翻訳だとも考えます。
先週も申し上げたとおり、マタイは「神の国が未だ来ていない」という考えを強く持っています。つまり、聴衆にパンが行き渡っていない現実を、ルカよりも深刻に捉えています。実際、今日のパンに事欠く失業者たち・元患者たちの群れが、山上の説教の聴衆なのです(4:23-5:2)。「今日のパンをくれ」という日雇い労働者の叫びにイエスは連帯しています(20:1-15)。
「もし神への祈りの理想形というものがあるのなら、それは人間の現実に根ざした内容でなくてはならない」という主張が、イエスにはあります。カディシュの祈りに足りないのは、隣人愛の視点です。
今日地球上の2割の人が全食物の8割を独り占めし、8割の人が2割の食物を分配しています。いわゆる南北問題です。その一方で富んでいる北の国々の中にも隠れた貧困・飢餓があります。「今日のパン」の課題を祈り続けたいものです。また、食卓を囲むことに価値が有るという文化を醸成していきましょう。JK