詩編145:14
今日の聖書は5月の暗唱聖句です。あんまり新共同訳聖書を批判したくはないのですが、私訳を紹介いたします。
「主は全て倒れている者を支え続け、すべてうずくまっている者を起こし続けています。」私訳のみそは、現在進行形にあります。新共同訳の立場は、近未来の予測と予防にあります。それに対して、今現に倒れている者・うずくまり続けている者を、神が支え続け・起こし続けていると解します。また、「ひとりひとり」を「すべて」と解します。ヘブライ語においては(英語のeveryも)どちらの意味もありうるからです。
このように訳すならば、人間存在の根本的なものを考える素材となります。つまり、すべての人は立っているように見えて倒れているのではないか、うずくまり立ち直れないでいるのではないか、ということです。平たく言えば、人間は弱いということです。どんな人も根本的には弱さを抱え続けて死ぬまで生活していくのではないかということです。
この中には自分自身自立できていると思っている人も、自立できていないと思っている人も、そんなこと考えたこともないという人もいることでしょう。何があってもへっちゃらという人も、立ち直れない痛みの中にいる人もいるかもしれません。あるいは日々の忙しさの中で、自分が何者なのかを振り返って改めて考える余裕がないというのが実情ではないでしょうか。
礼拝というものは、落ち着いて自分自身について考える時間を提供します。聖書というものは、自分自身についてどのように考えるべきかの切り口を提供します。そして信仰/宗教というものは、自分の弱さを思い知っている人のためのものです。弱さを抱え続けているので、神/超越的な存在に支え続けてもらいたいという観念が、宗教心というものです。
「宗教に頼る人は弱い人だ」という批判があります。正しい指摘です。頼らないで済む強い人に信仰は不必要なものです。弱さを認める人に信仰は必要です。だからこそ、人の弱みに宗教はつけこんではいけません。純粋にその人を支え続ける精神的柱としての「神」を示し続けなくてはいけないのです。
いづみにおいて、教職員やこどもたちは毎日礼拝をしています。こどもだけではなく保護者も毎月礼拝をしています。聖書の神が、弱い者を支え続ける神であることを、礼拝の中で常に確認できればと願っています。