5月8日の祈り会では創世記3章1-9節を学びました。
創世記3章はきわめて神話的な語り口で人間存在の根本を問う名場面です。しばしば「女性は感情的で誘惑に弱い」という迷信を補強するために用いられがちな箇所ですが、中心は「配偶者同士の関係性」と「神と人との関係性」です。
ヘブライ語のイシャーという単語は「女性」とも「妻」とも訳しえます。同様にイシュは「男性」とも「夫」とも訳しえます。原文では「彼女のイシュ」(7節)、「彼のイシャー」(8節)と人称代名詞が付いていますので、この文脈では「女」「男」ではなく、「妻」「夫」と訳すべきです。この夫妻は常に共に居ます(6節)。にもかかわらず配偶者同士が対等に向き合う協力関係になく、責任を担い合おうとしていません。そこに問題があります。仮に同性婚のカップルであっても同じような課題はありうることでしょう。
蛇の誘惑は、「人間が神のようになりたい」という欲望と一生つき合わなくてはいけない存在であることを示唆します。「善悪を知ること」「賢くなること」(5節)そのものは両義的なもので、一概に悪いとも良いとも言えません。問題は、「神のように(5節)」なること、すなわち支配欲です。聖書記者(J集団)は、当時の最先端科学を誇る新バビロニア帝国にいます。そこには文明があり、知者が多くいます。人類は昔も今も科学技術を常に軍事利用してきました。バビロン軍に敗れたユダヤ人の目で文明批判がなされています。
支配欲に負け、塔を上り詰めたいという上昇志向を持ち、隣人を虐げながら神さま気取りである人間。本当は後ろめたいけれども、あえて傲岸不遜に振る舞い、「ばれなければ何をしても構わない」程度の倫理観しか持っていない人間。神の前に立ち得ず、逃げ隠れする二人の姿は、根本的に倒錯した人間存在の弱さと悪さを教えています。それを罪とも呼びます。「アダム」(8・9節)と訳されている単語には冠詞が付いているので、固有名詞と取らない方が素直です。ここは「全人類」のような含みで語られているのです。
「あなたはどこにいるのか」(9節)。自由に歩き回る神は、支配欲に囚われ不自由に生きる全人類を問います。神と、そして隣人と誠実に向き合う生き方に真の自由があるのです。(JK)