5月15日の祈り会では創世記4章1-16節を学びました。
創世記4章は現在社会の諸課題に光をあてています。たとえば、エバ(「生命」の意)の出産と名づけは、女性自身が「生む権利」を持っていることを示唆します。当事者の意思を無視した出産の強要は人権侵害です。
その一方で、「生命倫理」の課題における人間の傲慢も戒められています。1節はエバが自分自身でいのちを創造したようにも訳しえるからです。人はいのちを創れないし、創ってはいけません。いのちは神のものです。
カインとアベルの職業の違いについては、しばしば職業間の優劣を示すように解釈されてきました(2節)。しかし、本文にはそのことは明示されていません。ここから職業差別を引き出す必要はありません。神は家畜の捧げ物も穀物の捧げ物受け取っています。ただ、供物を観るか観ないかの違いだけです(4-5節)。そしてその観るか観ないかの判断は神の自由意思によるものです。
問題はカインの「自分のために怒る」態度です(6節)。自分の思い通りにならない神に怒ることは、神を支配しようとすることであり、それを罪と呼びます(7節)。人には敬虔に思える行為のただ中で不敬を犯すことがありえます。いわゆる「機械仕掛けの神」が批判されています。
「彼の兄弟/同胞」(8節)・「あなたの兄弟/同胞」(9節)と、隣人性が強調されています。自身神のようになろうとする人間は、隣人に対する支配欲が強くなります。神を神としない者は、人を人とできないということです。神は、「あなたはどこにいるのか」と同時に「あなたの隣人はどこにいるのか」と問います。このことは、イエスが「神を愛せ」と同時に「人を愛せ/隣人となれ」と語ることと呼応しています。
殺人とは最悪の関係断絶であり人格的交わりの拒否です。そのことを聖書は「知る」「知らない」という動詞で表しています(1節・9節)。殺人を犯したカインに神はメソポタミア発祥の同害復讐(目には目、歯には歯、命には命)を適用しません。死刑に処さないからです。このことは死刑制度に対して波紋を投げています。また死刑と並ぶ「国家による殺人」である戦争に対しても、批判契機を与えています。(JK)