5月27日の聖書のいづみではマタイによる福音書6章14-15節を学びました。マルコによる福音書11章25-26節に並行箇所があります。
このような場合、マタイがマルコを真似して写したと考えるのが自然です。マルコが最古の福音書であり、他の箇所でもマタイはかなりマルコの記事を「圧縮」しながら「丸写し」しているからです。おそらく伝承の核となるイエスの生の発言は「誰かに対して何かあっても放っておけ」でしょう。イエスの教えの根幹は「無条件の神の赦し」にあるからです。だから「そうすればアッバもあなたたちのさまざまな過ちを放ってくれる」はマルコの付け加えと推測します(マコ11:25)。
マルコに対してマタイは「何か」を「過ち」と特定し(マタ6:14)、さらに「隣人をゆるさない場合」を付け加えます(同6:15)。「ゆるせばゆるされる」という積極的勧めが、「ゆるさなければゆるされない」という警告に変わっています。そして、「主の祈り」の第五祈願との強い関係づけを意図して、現在の文脈に移したのでしょう。つまりマタイは、「隣人をゆるしたという事実が神にゆるされる前提条件である」ことを、補強したかったということです。
さらに、出来上がったマタイ・マルコ両福音書を読んだ読者が、両者の異同を調整するために、マタ6:15と同じ内容のマコ11:26を書き加えたのです。新共同訳聖書において明示されているように、重要な写本にマコ11:26が存在しない理由は、その点にあります。
この箇所の根っこには「神の放任」があります。神は罪多き人間社会を寛容にもかなり大らかに放っておきます。信頼のゆえです。この神の愛は、たとえばヘイトスピーチなどと呼ばれる人権侵害が放置されている不寛容な社会に対する批判となります。寛容であることがわたしたちの模範です。
マタイの強調点は、良い意味の放任が悪い意味の放置に滑り落ちていくことを食い止める歯止めです。寛容ではない者にまで寛容である必要はありません。しばしば寛容ではない者が、相手の寛容な態度につけ込んで、居直ることがあるからです。わたしたちはそのような者たちには、誠実かつ知的に根気よく過ちを指摘しなくてはなりません。悪を放置すること・黙認することは、わたしたちの直面する誘惑の一つです。 JK