6/15今週の一言

6月15日の「聖書のいづみ」では出エジプト記28章31-43節を学びました。祭司の服装の続きです。エフォドの下に着る青色の「上着」(31節)と、その下に着る「長い服」(39節)を大祭司アロンは着なくてはいけません。上着の裾には「金の鈴」がたくさんついています(33-35節)。神にその音を知らせるためです。不用意に神に遭遇すると殺されると考えられていたからです。

そして「主の聖なる者」と彫られた印章のついた「額当て」をターバンに巻き付けなくてはいけません(38節)。それによってアロンは、同胞が死に値する罪を犯たときに、その罪をかばうことができました(レビ記10章12-20節参照)。

大祭司だけではなく、その家系の祭司たちも「亜麻布のズボン」着用が義務付けられています。隠しどころをあらわにして礼拝祭儀を行うことも、神に殺される理由となりえたからでしょう(20章26節参照)。

「死を招くことがない」(35・43節。直訳は「そして彼らは死なない」)ために大祭司も祭司も細心の注意を払っています。大祭司・祭司は、隣人の罪を担って隣人が死なないようにすることができましたが、その一方で祭服によって自分が神に殺されないように工夫をしていたということです。

似たような表現で、新約聖書との関係で重要なのは、レビ記22章1-9節です。ここには祭司がことによると死を招く場合が列挙されています。たとえば、皮膚病にかかっている者が供え物を食べた場合、死体に触れた場合、人を汚れさせる人間に触れた場合などなどです。宗教的に汚れているとみなされる人が、宗教的に神聖な神と出会う場面(礼拝)を司ってはいけないと考えられています。

イエスはこの「聖」と「汚れ」の二元論に挑戦しました。有名な良いサマリア人の譬えは、強烈な祭司への当てこすり・批判を含んでいます。物語は、被差別者サマリア人こそが倒れているユダヤ人を救ったという意味で、ユダヤ民族主義を批判しています。大筋として間違えではありません。

ただしそれだけでもありません。一般人であるサマリア人男性が助けた一方で、聖職者であるユダヤ人祭司・レビ人(祭司階級の人)が助けなかったことも要点の一つだからです。なぜ、祭司・レビ人は、半殺しとされた同胞ユダヤ人を助けなかったのでしょうか。レビ記22章4節は、「死体に触れると汚れる」とし、その人は日没まで祭儀行為ができなくなると規定しています。この命令を破ると「死を招いて」しまうのです(同9節)。イエスは祭司の言い訳を許しません。見殺しにして得られる宗教的な聖とは何かを問うています。 JK