6月17日の聖書のいづみではマタイによる福音書6章22-23節を学びました。ルカ11:34-36に並行箇所があるので、今回も「Q資料」と呼ばれる「イエスの説話集」の一部です。イエスの説話集という文学類型があったということは、「トマスによる福音書」の存在から類推されます。トマス福音書は外典(正典に選ばれなかった文書)の一つですが、マルコ福音書にあるようなイエスの行動が記されていません。もっぱら言葉だけを集めています。
元来のイエスの考えはおそらく「良い人の目は明るい。その場を明るくする人がいる」という素朴な発見でしょう。それを「からだのともし火は目である」という比喩にしたのでしょう。ちなみに上述トマス福音書24には「光の人の只中に光がある。そして、それは全世界を照らしている。それが照らさないならば、それ(彼)は闇だ」(荒井献訳)というイエスの言葉が収録されています。
ルカは「誰も升の下にともし火を置かない」という言葉を、「体のともし火は目」の直前に置いています(ルカ11:33)。おそらくこれがQ資料の時点の文脈です。マタイはこれを「あなたがたは世の光である」の直後に移し換えました(マタ5:14以下)。同じ「体のともし火は目」と語りながらも、ルカは積極的に「あなたがたの光を輝かせよ」という勧めを採り、マタイは消極的に「あなたの中にある光を消さないように」という警告を採りました。
マタイは「富と心」という主題のもと6:19-24という単元を創設し、「拝金主義に堕した悪い信徒」を批判しています。その人々はマタイによれば「目つきの悪い人々」に見えてならないのです。教会員一人ひとりが直面している誘惑に対して、マタイおよびマタイ福音書を編纂した教会指導者たちは警告を発して、「教会というキリストのからだを暗くしないように」とも願っています。
聖書における体や体の部位を用いる喩えは全般に「健常者」を前提にしており、「障碍」ないしは「特性」を無視しています。その限りでしょうがい者差別を助長しないように読者は丁寧に解釈を施すべきです。
その論点を踏まえた上でも、「(射るような)視線」と「(温かい)眼差し」の違いは指摘できます。傲慢な上から目線、攻撃的なやぶにらみ、伏し目がちな暗い眼などなど。やはり目は口ほどにものを言うのでしょう。 JK