6/26今週の一言

6月26日の祈り会では創世記12章10-20節を学びました。

都議会における「野次問題」。謝罪になっていない謝罪、とかげの尻尾切り、適当な幕引き、性差別発言という人権侵害が問題の中心にあるということを、きちんと議会も報道も批判しきれていません。他人の公式発言時の不規則発言、ばれなければ嘘をついても良いという態度、本音と建前の使い分け、自分の言葉すら守らない姿勢など、とても幼稚園児に教えられないことが都民(および国民)の代表らによって常識とされていることに、日本社会の未熟さがあります。有権者のレベル以上の議員は生まれないものです。

「信仰の父」として尊敬されているアブラムもまた、そのような問題性をはらんだ人物です。彼は自分の命を守るために、妻サライをエジプトの最高権力者ファラオに差し出します。サライを自分の妹であると嘘をついた上で王宮に娶らせたのです。王は「義兄」となったアブラムに巨万の富を与えます。アブラムはこのような仕方で得た富を、のうのうと自分のものとするのです。

確かに旧約聖書の人物にはこのような詐欺師的英雄が多いものです(例えばダビデ)。それにしても、ここまで女性差別を前提とした偽計を用い、自分の妻を食い物にして保身を図るアブラムの姿は常軌を逸しています。サライをファラオの妻にすることは、「アブラム・サライの子孫を繁栄させる」という主の約束にも反する行為なので、信仰の問題として重大な過誤と言えます。

不思議なことは主なる神の振る舞いです。バベルの塔の建築を阻止した主は、アブラムの蛮行を黙認します。しかも、主が懲罰をする対象は、ファラオを欺いたアブラムではなく、アブラムに欺かれたファラオなのです。いかにも不公正な主の振る舞いにわたしたちは不信の念を抱きます。

聖書にはとても納得できない物語も記載されています。このような記事をどう読むかにわたしたちの信仰と生き方が問われます。この物語で終始沈黙を強いられているサライの側に立つ解釈が必要とされます。物扱いされている女性の地位の低さがアブラムを増長させています。「否」と言えない環境を変えない限り悲劇は続くのです。差別克服に手を貸さない主は、人間にその実行を委ねています。この物語は日本軍によって強制的に性奴隷とされながら1991年まで公にできなかった女性たちの名誉回復の課題と重なり合います。(JK)