6月3日の聖書のいづみではマタイによる福音書6章16-18節を学びました。この箇所はマタイにしか記載されていません。このような記事を「マタイ特殊資料」とも呼びます。生前のイエスの言行に遡る場合と、マタイ教会の付け加えの場合とがありえます。
宗教者の行う偽善的な宗教実践についてイエスは批判的でしたが、断食という宗教実践を積極的には勧めませんでした。当時のすべてのユダヤ人たちは確実に一年に一度(一日)断食を宗教的な理由で行っていました。「(大)贖罪日」と呼ばれる日です(レビ16:29、同23:27)。さらに宗派によっては毎週/週に二回断食を行っていたようです(ルカ18:12)。ファリサイ派やバプテスマのヨハネの宗団(エッセネ派の支流)は積極的に断食を勧めていたようです。
それに対してイエスの弟子たちは断食をしませんでした(マコ2:18-22)。むしろ徴税人・「罪人」らと共に食卓を囲んでいたのです(同2:13-17)。マタイもルカもこの二つの物語を同じ順番で記載しています。ここにイエスの「神の国運動」の新しさと本質があったことは、初代教会の共通の基盤だったわけです。
その一方でキリスト教会の創始者たちはユダヤ人たちでした。ユダヤ人の伝統的宗教実践としての断食を、イエスほどに急進的に棄てることができなかったのでしょう。「主の晩餐/愛餐(共に食卓を囲むこと)」を継承しながら、断食(食べないこと)も復古させました。それを重視する人を教会に招くためです。
使徒言行録にはさまざまな場面で断食をしているキリスト信徒が登場します(使徒13:3、同14:23)。ユダヤ教徒としての「(大)贖罪日」の断食すら実践されていたようです(同27:9)。使徒教父文書の一つディダケー8:1には、キリスト教徒が毎週金曜日断食をしていたとも報告されています。これはユダヤ教の実践をキリスト教的に融合させた結果の行いです。金曜日という設定はイエスの受苦日を意識しています。
マタイ教会も断食を信徒の敬虔な行いの一つとして実践していたのでしょう。ただし生前のイエスによる断食批判を知っているので、「偽善でない限りにおいて断食を行うことに意味がある」という制約を設けたのでしょう。断食をするかしないかが問題ではなく、神と隣人に誠実であるかどうかが問題です。 JK