6/8今週の一言

6月8日の「聖書のいづみ」では出エジプト記28章15-30節を学びました。大祭司の服装についての定めの続きです。エフォドという祭服の一部に、一体化して取り付ける「裁きの胸当て」(15・29節)の仕様が書かれている箇所です。この「裁きの胸当て」には、「ウリム」と「トンミム」と呼ばれるくじが入れられました(30節)。大祭司は神と民の仲介者なので、神の意志を尋ねて、それをくじで知るという仕事を担っていました。いわゆる「神明裁判」を行う権限が、モーセの兄である初代大祭司アロンに付与されます。

「裁きの胸当て」も、エフォドと同様に最上級の素材と織り方が要求されています。また、エフォドにおいては、十二部族の始祖の名前が二つの宝石(ラピス・ラズリ)に彫り込まれていましたが、胸当てにおいては各部族用に異なる十二種の宝石が用いられます(17-20節)。大祭司が名前を記念して担うことの趣旨は、エフォドにも胸当てにも共通していますが(12節と29節の類似表現参照)、後者の方が個別の部族をより重視しています。それはおそらく、裁判という権力の大きさのゆえでしょう。部族間の利害調整をする場合に、特定の部族に偏らない中立性と、全体を代表する権威が必要だからです。

裁判は重大な権力です。古代イスラエルにおいては「統治する」ことを「裁く」と表現したほどです。中世から現代の歴史にかけて立憲民主制を市民がかちとる過程の中でも、「司法権」は最後まで王が握っていました。日本国憲法が、事細かに刑事訴訟について国家がしてはいけないことを定めたり、裁判所の権限拡大(違憲立法審査権)を明記したりしているのも、明治憲法のもと司法権が国家に濫用されたことへの反省からです。権力分立していない国は憲法を持っていないのです。

イエスの裁判において、大祭司はウリムとトンミムを使用していません。神明裁判によるくじ引きの託宣は、二分の一の可能性でイエスを無罪にしてしまう可能性があります。大祭司カイアファは、舅であり前任者であるアンナスは死刑判決という結論を決めてから、卑劣な秘密裁判によってイエスを殺害したのでした(ヨハネ福音書18章)。神明裁判以下の司法権の濫用です。

行政府の長である安倍晋三内閣総理大臣は国会で何度も「わたしは立法府の長」と語りました。単なる言い間違えではなく、巨大与党総裁による確信に満ちた傲慢な発言でしょう。加えて「最高裁判所長官」と自認すれば歴史の逆戻り、完全な独裁者の誕生です。いや、司法消極主義を採り政治部門の統治行為を黙認し続けている日本の司法の状況を考え合わせると、すでに「三権集中」とも言えます。 JK