7月10日の祈り会では創世記14章17-24節を学びました。
イスラエル軍によるガザ空爆の報に接しつつ、アブラム・サライ・ロトの物語を読み直しています。「約束の地」にすでに入りながら、自らの所有権を主張せず「寄留者」(「ヘブライ人」の原意。13節)の地位に留まり続ける民こそ、教会の原型です。ロトはソドムというカナン人都市国家に住居を構え(13:12)、アブラム・サライ夫婦はアモリ人マムレと賃貸借契約を結んで住まわせてもらっていました(13・24節)。先住民と共に平和に暮らしていたのです。
メソポタミア大国連合対カナン都市国家同盟の戦争が起こった時、アブラムは捕虜とされたロトを奇跡的に救出しました(14-16節)。その時、まったくの第三者であるメルキゼデクという人物がアブラムを迎えます(17節)。彼は「(エル)サレム」の王であり、「いと高き神(エル=エルヨーン)」というカナン土着の神の祭司でした(18節)。サレムは平和を意味するシャロームと同じ綴りです。メルキゼデクは平和の王として集団的自衛権を用いず戦争に関与しませんが、カナン都市国家の一つとして、アブラムの快挙を祝福したかったのです。彼は自らの信じ奉る神の名でアブラムを祝福します(19-20節)。そしてパンとぶどう酒とすべての物の十分の一をアブラムに捧げます。
アブラムはこの祝福を喜んで受け取ります。自分自身でも「いと高き神、主(ヤハウェ)」の名によって誓うほどです(22節)。アブラムは、メルキゼデクの信じる神と自分の信じるヤハウェなる神とを同一視しています。この態度はモーセにも似ています(出18章)。
新約聖書ヘブライ人への手紙5-7章においては、メルキゼデクがイエス・キリストの予表と考えられています。ユダヤ人の家系に拠らない祭司であり、平和の王であることが、イエス・キリストと似ていると捉えるのです。その限りで、メルキゼデクのパンとぶどう酒と贈り物は十字架の予表です。
20世紀に「宗教多元主義の神学(Pluralism)」が欧米の植民地支配に対する反省として生まれました。それは先住民族らの思想信条文化を最大限尊重する仕方で共存しつつ布教をしようという神学的主張です。また積極的に土着の文化・敬虔を福音と紡ぎ合わせようという試みです(Indigenization)。「多神教対一神教」という単純な図式化は、すでに古いのです。(JK)