7/15今週の一言

7月15日の「聖書のいづみ」ではマタイによる福音書7章1-6節を学びました。ここには元来起源の異なる二つの教えの合流が認められます。①「人は自分の量る秤で量られる(裁くと裁かれる)」という教えは、マルコ4章24節にあります。それをマタイもルカも踏襲したのでしょう(マタイ7章2節 // ルカ6章38節)。②「他人の目のおがくずを取る前に、自分の目の丸太をまず取り除け(裁く前に自己吟味せよ)」という教えは、Q資料/伝承由来のイエスの言葉でしょう。マルコになく、マタイとルカのみに共通しているからです(マタイ7章1節・3-5節 // ルカ6章37節・41-42節)。現在のマタイの文脈では①と②が「裁くな」という主題で統合されています。

イエスの教えの根源には、「真に隣人を公正に裁くことができるのは神のみである」という旧約聖書以来の信仰があります。だから偽善者たちのように、隣人を自分の尺度で判断し切り捨てるのは、裁き主である神に対する越権行為となります。報復は神に委ねなくてはなりません。死刑制度が神学の課題となる所以です。

マタイは「犬に神聖なもの」「豚に真珠」を与えるなという教えを付け加えました(マタイ7章6節)。ルカ6章には無い部分なので明確にマタイの付け加えです。ここには動物差別を前提にした差別思想が現れています。マタイ教会の持っている排外主義です。

使徒教父文書という初代教会にとって権威のある宗教書の中に『ディダケー(教訓の意)』というものがあります(1世紀後半から2世紀前半の著作)。「信者以外に晩餐のパンとぶどう酒を配ってはならない」というディダケーを生み出した教会の宗教実践が、マタイ7章6節「神聖なものを犬に与えてはならない」の引用によって根拠づけられています。この影響は現在の教会にまで及んでいます。

このような解釈の歴史(影響史とも言います)は、イエスが開始した「神の国運動」の実践から批判的に検討されなくてはいけません。聖書は、「そこに何が書いてあるのか」と同時に「あなたはそれをどう読むのか」という問いの前に、誠実に自己吟味をした上で読み解かれるべき神の言葉です。

排外主義が声を大きくしている世にあって、わたしたちはあらゆるいのちと食卓を囲むために、隣人を裁かない交わりをつくりましょう。 JK