「聖書のいづみ」は夏休みに入りました。アジア太平洋戦争の敗戦から70年が経ち、改めて「戦争とは何か」ということが問われている夏です。キリスト教倫理の視点から戦争について考えてみましょう。
戦争は国家の名による外国人の殺害です。原則的に違法行為である殺人が、戦争においては例外的に適法と認められます。それで良いのでしょうか。
「殺してはならない」(出20:13)という聖句は、「国家の名においてならば他者のいのちを奪うことは許されるか」という問いをひき起します。死刑制度とも軌を一にする問いです。国家をいのちの創り主である神の位置に押し上げることには批判的であるべきです(ヨブ1:21)。また殺害した罪は兵士の匿名性によって免罪されるものではありません。殺人者は名を持つ個人として、被害者の名をも覚え続けている裁き主・神の前に立つのです(創4章)。
すべての人は「神の似姿」です(創1:26)。外国人であれ「敵」であれ同じ重みです。戦争は外国差別を前提に「敵」に暴力を加える行為です(マタ5:44)。また軍隊内部は上下関係による抑圧によって構成されます。人として尊重されていない人が人を尊重しないという行為が戦争です。「互いに足を洗い・給仕し合え」(ヨハ13:14)・「自ら隣人となれ」(ルカ10:37)という聖句と正反対です。
殺人罪は「正当防衛」の場合に国内法上適用されません。しかしそのような場合でも「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」(マタ5:39)という聖句によって正当防衛の正当性が問われます。さらに個人の正当防衛は国家の行う自衛戦争と同じなのでしょうか。「国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」(イザ2:4)との聖句は、自衛戦争をも批判しています。
「神と富とに兼ね仕えることができない」という聖句は(マタ6:24)、国際的大企業がさまざまな「国家」をまたいで世界を支配している状況を批判しています。戦争においては、他人の戦闘行為によって金儲けをすることの倫理性も問われます。大国同士は決して戦争をしないでしょう。経済的に相互に依存し合っているからです。「国家対国家」ではなく「武装集団対諸外国軍」という「非対称の戦争」の時代。武器/原発を売る国際的大企業群がそれを望み、それらの人々が大国の政権を支配しているからです。安倍政権を支えているのは経団連です。JK