9/14今週の一言

9月14日の聖書のいづみでは、出エジプト記29章38-46節を学びました。

教会用語の一つに「会衆」があります。一般に礼拝するために集まっている人を指す言葉です。

もう一つ、バプテスト派の教会の場合は「会衆主義」という熟語の要素に「会衆」という単語が含まれます。これは特別な用法です。寄り道ではありますが、こちらの特別な用法から説明いたします。

元来会衆主義という言葉は、「監督制」と対置されるものとして発案された言葉でした。監督制は、各個教会の上位に教職者集団(監督)がいて、各個教会を支配することができる仕組みです。特に牧師の人事権を監督たちが握っているのです(聖公会やルーテル派など)。それに対して「会衆制」は、各個教会が独立して対等の関係にあるという仕組みです。牧師の人事に関しても各個教会の自治が重んじられ、各個教会が招聘したい牧師を選ぶことができます。

会衆制/会衆主義という単語は後に広く、各バプテスト教会内部の自治の仕組みを指す意味にも用いられるようになりました。つまり、牧師や執事に対置する言葉として、教会員を指す言葉が会衆です。バプテストにおいては、牧師や執事を含むすべての教会員が平等であり、教会総会において同じ教会員としての一票しか持っていません。身分上の上下はなく、会衆全員で教会を民主的に運営するという意味で会衆主義という言葉を用います。今ではこちらの意味が一般的になりました。

本筋に戻ります。礼拝する民を会衆と呼ぶことは、礼拝の意義を端的に示しています。礼拝とは神に会う行為、集団で神を見る行為/神が集団によって見られる行為と旧約聖書の時代から考えられていたからです(42-43節)。このユダヤ人たちの伝統を、新約聖書の示すキリスト教会の礼拝も引き継ぎました。「主の日」は主イエス・キリストがよみがえらされ、弟子たちに顕われた/見られた日です。毎週日曜日の礼拝は、復活のイエスと出会う行為と考えられました。これもまた旧新約を貫く伝統ですが、神に出会う礼拝の必須要素として神の言葉の朗読や解き明かしがなされていました(42節)。礼拝とは共に神に会い・神に聞く行為です。

そのような礼拝共同体である会衆の真ん中に神が宿っています(45-46節)。このような形で、神はご自分が救い出した民の神となり、救われた民は神を礼拝する会衆となります。二人でも三人でもイエス・キリストの名前によって集まる交わりに主がおられます。主の周りでみ言葉を聞き、み心を行う民の真ん中に主がおられます。その時神の国はわたしたちの只中にあります。礼拝は救いそのものです。JK