9/9今週の一言

9月9日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書7章7-12節を学びました。「求めなさい。そうすれば与えられる」から始まる有名なシリーズ、ほとんど同じ内容でルカによる福音書11章9-12節にも収められています。大意は明らかです。「神は良い方であり、わたしたちが素直に信頼し願い求めれば、願い通りに与えてくださる」というものです。イエスがアッバ(お父ちゃんの意)なる神に素朴な信頼を寄せていたことがよくわかる教えです。この意味では、「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの発言とも一脈通じます。

この主張を支える理由としてたとえ話が用いられます。どんなに悪い人でも自分の子どもの願いには応えるものなのだから、ましてや良い方である神は神の子らの願いに応えるはずという論証です。今日的には「我が子に暴力をふるうほどに追い詰められた親もいる」という現象から問い直されるべき理由付けですが、言わんとすることは理解できます。

マタイによる福音書の強調点は、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という教えを、現在の文脈に置いたことに現れています。おそらく、「敵を愛せ」という教えの中にあるルカ6章31節が本来の文脈でしょう。マタイは「神への素朴な信頼」と「徹底した隣人愛」を結びつけます。それは5章から7章に渡る長大な「山上の説教」全体が、「信仰に基づく徹底した行い」を勧めるものだからです。

「人にしてもらいたいことを人にせよ」という命令は「黄金律」とも呼ばれます。この呼び名は論語に所収されている孔子の言葉、「人にされたくないことは人にするな」という命令との比較の中で生まれました。「人に迷惑をかけないように」という、わたしたちにはお馴染みの考え方は、より消極的な勧めとして「銀律」と名付けられました。イエスの教えは「積極的平和」の命令です。

現代社会における「積極的平和」の名付け親は、ノルウェーの社会学者、ヨハン・ガルトゥングという人物です。彼は平和を、戦争のない状態という「消極的平和」と、差別・貧困・抑圧など構造的暴力のない状態までも含めた「積極的平和」に分類しました。消極的平和は銀律に、積極的平和は黄金律に、それぞれ似ています。

自分が満腹したい人は、飢えている人に石ではなくパンを配る必要があります。魚が欲しい人に蛇を与えることは良くありません。紛争やテロ行為の根源には、被差別経験、生まれついての貧困があります。すべての人は尊重されること・毎日を安全に生きることを願っています。人間の安全保障が大切です。 JK