9月30日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書7章15-20節を学びました。
この箇所は複雑な経緯で、「山上の説教」(5-7章)の一部に採り入れられています。おそらくルカによる福音書6章43-45節が本来のイエスの言葉を保存しています。それをマタイは、本日の箇所と12章34-35節に分割して収めました。そして本日の箇所においては、「偽預言者」への警告を(15節)、世の終わりの裁きと関係付けて付け加えたのです(19節。3章10節も参照)。偽預言者とは、マタイ教会を外から脅かす、熱狂的終末論を掲げる巡回伝道者かもしれません(24章11・24節)。マタイの意図は、自らの教会を守ることにあります。外部の者が偽預言者であるかどうかを吟味するために、イエスの言葉が用いられます。悪い言動を見せる者は危険分子とみなして排除して良いということでしょう。
人間が社会的存在である限りにおいて、マタイの意図は分からなくもありません。組織の長は、羊飼いとして囲いの中にいる自らの羊たちを守らなくてはなりません。しかし、しばしば組織というものは外部の人を軽蔑したり、内部の個人を犠牲にしたりすることがあります。また、組織に属することで個人の責任が免罪されがちな風潮を考えると、マタイの考え方に問題無しとしません。
元来のイエスの主張は明快かつ単純です。いちじくの木はいちじくの実を生みます。当たり前です。いちじくの木だからです。木と実が一致するという当たり前の事実を取り上げ、「その事実は人間性と人間の行いの関係と同じである」と、イエスは主張します。内面にある本心が、外側の行為に出てくるのだというのです。この意味ですべての人は、自分のあらゆる言行について責任を負います。つまり、組織のために良かれと思ってひどい言葉を内外の人に吐くことも、神の前では裁かれるでしょう。
一見厳しい教えです。「心にも無いことを言ってしまってごめんなさい」という言い訳が成り立たないからです。その一方で、常に自分自身の評価を上げる機会が、すべての人に与えられているとも言えます。少し背伸びをした発言であっても、良い言葉を発すれば良い人とみなされるからです。良い言葉を使う人は良い人です。善行をする人は善い人です。すべての人は良い人になることができるのです。しかも結構簡単に。
「あんな風に見えて、あの人/自分は案外・・・なんだよね」というややこしい腹の探り合いに疲れたとき、イエスの単純な人間観に立ち戻ると休まります。JK