10月7日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書7章21-23節を学びました。
「山上の説教」(5-7章)には「急進的な教え」が載っています。「あなたの敵を愛しなさい」「思い煩うな」「人にしてもらいたいことを人にしなさい」などなど、およそ実行が不可能なのではないかと思われる命令が多くあります。それらの命令を実行することが「神の意志」を行うことであると、イエスは確信していました。
今回と次回の箇所は山上の説教のしめくくりにあたります。「神の意志を行う人だけが天の国に入る」という発言が目を引きます(21節)。この言葉は、古代の教会から語られてきた「教会の外に救いなし」という教えを、根本から批判する内容を含みます。また、近代に始まったプロテスタント教会の「信仰のみ(救いの条件としての行いを批判する趣旨)」という教えをも、根本的に批判する内容を含んでいます。
キリスト者であること・キリスト教会に属すること・主の名を呼ぶ礼拝をすることは、天の国に入ること(救い)を保証しないと断言しているからです。また、キリストの名によって預言をしても・悪霊を追い出しても・奇跡を行っても(つまり教会の活動の一環として善行をしても)、何も救いの保証になりません(22節)。もちろん、「善行を必要としないでただ信じることだけで人は救われる」とも決して言っていません。神の意志を「行うこと」は依然重要なのです。さもなければ、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と、世の終わりの日にイエスからきっぱりと言われてしまいます(23節。なお25章も参照)。
この急進的な発言を前に、「それでは、どのようにして神の意志を知ることができるのか」「救いについて誰が確言できるのか」「キリスト教会の役割は何か」などの問いが湧きます。信じて生きることの意義は何でしょうか。
神の無条件の赦しという愛によってのみ救われること(恵み)は、信仰と希望(主観)の領域です。客観基準などはないということを謙虚に受け止めなくてはなりません。信仰は必ず愛の実践を促すものです。恵みを安価なものにしてはいけないからです。ナチスドイツを支持したのは、「信仰のみ」「恵みのみ」を標榜するプロテスタント教会だったという事実をわたしたちは反省すべきでしょう。
神の意志を知るためには聖書を読むべきです。最終判断を世の終わりまで留保しながら、教会は聖書の示す福音をその都度の責任ある解釈をもって(時々間違えもありうる)世界に告げ、自らの解釈を誠実に行う役割を持ちます。謙虚かつ誠実な主イエスの名を呼ぶ礼拝者は、神の前で謙虚かつ誠実に生きる者です。JK