今日は差別とは何かということを考えるヒントについて申し上げます。
聖書という本は古代文献の翻訳書です。それは人類共通の古典(古代人の書いた本)でもあり、キリスト信徒にとっては正典(時間を超えて神の言葉と信じられている本)でもあります。古代の言葉としては当然なことに、現代の私たちから見て問題となる記述・人権侵害に当たるものも含まれています。たとえば障がい者に対する差別が露骨にあったり、虐殺・戦争が肯定されていたりします。
ところがその一方で、人権思想・平和思想も同じ聖書から派生しているので話はややこしいのです。イエスの説く隣人愛は人権思想のはしりであるし、絶対平和主義はキリスト者の中から出てきた思想です。立憲主義(憲法によって権力をしばるという考え)も、聖書の預言者たちやイエスから出発しているように思えます。要するに良いも悪いもごちゃごちゃしています。一つ視点を定めないと、どのようにも読めるということです。
わたしなりに視点を定めているのは人権・平和という思想と実践です。今のところの人類がたどり着いた最高のものであろうと思うし、世の中の役に立つと思うからです。その上で現代の社会的個人的諸問題を、古典・正典である聖書にぶつけていきます。そうすると聖書の中に濃淡が生まれます。今・ここで、どれを採りどれを採るべきでないかが浮かび上がってきます。そうして聖書は決して古色蒼然とした昔の本でもなく、キリスト信徒のみがありがたがる教則本でもなく、わたしたちの生活に向かって語りかける本となるのです。
今日の箇所は、「イエス・キリストの系図」です。
系図というものは民族主義のひとつの現れです。由緒正しい血統であることを証明するものだからです。その意味で、イエス・キリストがアブラハムの子孫であろうが、ダビデの子孫であろうが、わたしたちにとってはどうでも良い情報です。神は石ころからでもアブラハムを創ることができるはずだから、民族主義は意味のない誇り・こけおどしです。
新大久保などで起こっているヘイト・クライムを見るにつけ、本当に民族主義的排外主義には嫌気がさします。どんなに朝鮮半島の人を嫌っても、わたしたちの先祖の一部が半島から来たのは事実です。顔も言葉もよく似ています。もちろん全然似ていなくても差別する理由にはなりませんが、それにしてもあまりにも非論理的な暴言で誹謗中傷、業務妨害を繰り返す人々は、大いに問題です。
さらに系図はしばしば男系のみを重視します。アブラハムにはサラとハガルという妻がいましたがここでは省かれています。その意味でこの系図も性差別を前提にしています。いづみ幼稚園が混合名簿であることは本当に意味のあることだと思います。
もう少し突っ込んで考えてみましょう。ここには四人の女性が登場しています。タマル(3節)、ラハブ(5節)、ルツ(5節)、ウリヤの妻(6節)の四人です。ここに人権思想・差別を打ち破る考えの芽があります。第一に女性を系図に載せることそのものが画期的です。性差別を乗り越えようとする意思を感じます。第二にこの四人がすべて非ユダヤ人であることが画期的です。民族差別を乗り越えようとする意思を感じます。第三に、それぞれの出産にまつわる逸話が個性的であるということが画期的です。そのままで当時の読者も、現代のわたしたちをも揺さぶる逸話なのです。つまり、世間体というものを乗り越えようとする意思を感じます。
カナン人タマルはユダの息子の妻でした。ユダは彼女を娼婦と勘違いして売春し妊娠させます。それはタマルの策略でした。詳しくは創世記38章に譲りますが、聖書はタマルがユダよりも正しいと評価を下しています。
カナン人ラハブは娼婦でした。昔も今も性産業従事者への差別はあります。ところがこの娼婦ラハブのおかげでイスラエルという民全体が救われたとヨシュア記に書かれています。
モアブ人ルツは玉の輿を狙ってボアズという男性に「夜這い」をかけました。老いた姑と自分のいのちをつなぐための窮余の策でした。ルツ記に詳しく書かれています。
ヘト人ウリヤの妻は、ダビデ王によって強引に家臣ウリヤから奪い取られた女性です。ダビデは彼女を強姦し妊娠させ、その後陰謀によってウリヤを殺したのでした。ダビデ王は卑劣な男性です。サムエル記下に赤裸々に記されているスキャンダルです。
この四人の女性を書き込むことはマタイの教会にとっても思い切りのいる決断だったと思います。丁寧に読むと四人は聖書記者に評価されています。しかし、当時の読者にとっても現在の読者にとっても、一瞬ひるむ逸話を持っている人々なのです。
世間とか常識とか、そういったものが問われています。わたしたちはいろいろなことがらに縛られて不自由に生活していないでしょうか。変わった人を見るとぎょっとしたり、変わった人に見られないように努力したり、世間体を気にしたりしてはいないでしょうか。多様性を認められるでしょうか。異なる他者に寛容でいられるでしょうか。話し合ってみましょう。