10月28日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書8章5-13節を学びました。
今日の箇所はルカ福音書にほとんど同じ物語が記載されています(ルカ7章1-10節)。加えて、珍しいことにヨハネ福音書にも類似の物語があります。この場合、マタイとルカが共有している伝承(「Q資料」と呼ぶ人もいます)と、ヨハネが独自に入手している伝承が競合しています。マタイ・ルカ共有部分とヨハネに共通の部分が、歴史の事実を伝えていると推測します。つまり、「ガリラヤ地方のカファルナウムという町で、イエスがとある権力者の関係者の病気を癒した。その際に、患者本人とは離れた場所で、権力者に言葉をかけただけで治した」という話の骨格が、確定できる事実でしょう。
物語中の「百人隊長」(5節)は、ローマ人である可能性と、ユダヤ人である可能性があります。ガリラヤの領主ヘロデがローマの軍官制を真似ていたからです。いずれにせよ軍人です。
この物語をマタイは「ハンセン病患者の癒し物語」(1-4節)の直後に置きました。それによって、ハンセン病患者に対する差別・偏見と、軍隊に対する嫌悪感が、ひとつなぎとされています。
百人隊長がこれ以上のない仕方でイエスから褒められていることは注目に値します(10節)。イエスは暴力装置としての軍隊に批判的ですが、しかし、公正な目を持っています。病気を患っている人には、軍人であろうとなかろうと共感を寄せます(6-7節)。また、見事な発言に対しては、「お見事」と褒めるのです。何がイエスに評価されているのでしょうか。
それは言葉が出来事となるという確信です。ヘブライ語においては、どちらもダバルという単語です。「ことの端(は)」が言葉であり、発せられた言葉は必ず出来事として実現するという観念は、日本にもありました。聖書の世界においても、神が語るとその通りの出来事が起こります(創世記1章)。軍隊という上意下達の組織に身を置く経験から、百人隊長はイエスの言葉が地上に実現するという信を得たのでした(8-9節)。
もちろん今日的にはハラスメントの温床となる上下関係は批判されるべきです。だからここでの「権威」は、神にのみ属するものと解すべきです(9節、7章29節)。そのことを差し引いても、百人隊長の信が部下の病気を癒したことは、大いに評価されるべきです(13節)。 JK