11月25日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書8章28-34節を学びました。「ガリラヤ湖の向こう岸で悪霊に取り憑かれた男性を癒す物語」は、マルコ福音書5章1-20節・ルカ福音書8章26-39節にも収められています。直前の「嵐を鎮める物語」と一塊であることがわかります。両物語の一体性についてマタイもルカも、最古の福音書であるマルコを踏襲しています。
ただし今回の箇所について、マタイはマルコの内容をかなり改編しています。単純に分量を大幅に削減しています(全20節を7節に圧縮)。どのような部分を削っているのでしょうか。それは、悪霊に取り憑かれた男性の人物像が詳しく描かれている部分です。
たとえば、この男性(または悪霊群)の固有名「レギオン」が省略されています。そして個人レギオンの物語から、名の紹介されない「二人の悪霊に憑かれた男性」の物語に変えられています。また、レギオンが町から隔離され、鎖や枷で墓場に拘束されていたことや、その拘束をひきちぎる怪力を持っていたことも省かれます。レギオンを排除する町固有の課題が薄まっています。マタイにおいては、二人の男性の「狂暴(原意は厄介)」さのみが課題として指摘されています。
悪霊から解き放たれた人物の「その後」についても、マタイは一切関心を払いません。マルコによれば、正気を取り戻した彼は服を着ます(それまでは全裸だったのでしょう)。そして、イエス一行に加わりたいと切望します。ところがイエスは彼に自分の町に帰るように促します。それによって町の人々が排除の思想から悔い改め、彼と共に生きる共同体になることが目指されているからでしょう。
マタイはこのようにして、物語を匿名化し一般化します。その編集効果の利点は、普遍性を獲得することにあるでしょう。誰にでも起こりうることとして、また福音書の他の箇所にもしばしば言及される出来事として、この悪霊祓いの物語を読むことができます。敷居が低くなり、視野が広げられます。
その上で、悪霊が叫ぶ言葉「神の子、かまわないでくれ」が読み直されるべきです。直訳は、「わたしとあなたの間に何が(あるのか)」です。ここに、悪霊とは何かを考える鍵があります。わたしたちは、広く一般的に悪霊を理解すべきです。
悪霊とは、およそ関係性を歪める現象・事象・仕組みのことを指すと理解して差し支えありません。神の子は、この世界と関係を持とうとして遣わされました(クリスマス)。そして聖霊は、人と人、人と被造物をつなげる神の霊・イエスの霊です。わたしたちは信仰によって、適切な距離を保つ関係性を学びます。