12月9日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書9章9-13節を学びました。「徴税人を弟子とし、共に食事をする物語」は、マルコ福音書2章13-17節・ルカ福音書5章27-32節にも収められています。先週の物語を含めて、マルコが編纂した三つの物語の連続を、マタイもルカもその通り踏襲しています。①「中風の人をめぐる論争」⇒②「徴税人をめぐる論争」⇒③「断食をめぐる論争」という一続きです。
イエスの自由な振る舞いに対して、当時の宗教指導者たちが批判をし、それに対してイエスが応答をするというパターンが貫かれています。①においてイエスは、「病気の原因とみなされていた罪の赦し」を宣言する祭司階級に挑戦しました。祭司たちの頂点にはエルサレムの神殿貴族であるサドカイ派がいます。②においてイエスは、民間からの信望も厚いファリサイ派に挑戦しています。彼らが「徴税人の家に入る者は一日中宗教的に汚れる」という規定を作ったからです。③においてイエスは、ヨハネ宗団(エッセネ派と近い)に挑戦します。彼らは、断食など厳しい修道生活を特徴としていました。
これら当時のユダヤ教各派に対する論争によって、イエスを中心とする「神の国運動」の本質が浮かび上がります。イエスの主張は、宗教そのものへの挑戦、または「悪しき宗教性」への根本的批判です。人さまを清い/汚れていると定める宗教というものが「罪人」を生産し、「病人」「徴税人」「飢えている人」を差別しているという倒錯を、イエスは衝きます。だから普遍的な神の愛は、不平等な地上においては偏ったかたちで現れます。蔑視されている徴税人と共に食事をとることが、神の国運動の本質です。
マタイはここに独自色を持ち込みます。一つは、徴税人との食事がイエスの自宅で起こっているという脚色です(10節)。食事の場面、マルコ版では徴税人の自宅です。しかし、マタイは「その家」(定冠詞+名詞)とします。この表現は主語の人物の家であることを示唆します。マタイ版では食卓の主人はイエスなのです。
二つ目に、ホセア書6章6節という旧約聖書の引用です。これはマルコにはありません。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」は、12章7節にも引用されるほど、マタイにとって重要な旧約聖句です。マタイが急進的な愛の実践を非常に重んじているからです(7章24節)。宗教儀式・戒律を守るよりも愛するということが大切です。その愛を「憐れみ」と理解したマタイの洞察は、現代的でもあります。共感と寛容が世界に求められています。JK