4月13日の「聖書のいづみ」では、出エジプト記25章1-8節を学びました。日曜日の礼拝説教で新約聖書を取り上げている際には、水曜日に旧約聖書を学んでいく予定です(逆もまたしかり)。
出エジプト記24章で、神とイスラエルは契約を交わしました。それを「シナイ契約」と呼びます。キリスト教徒から見て「旧約」と呼ぶものです。一方的・無条件の救い(奴隷の解放)に基づいて、相互に「この民の神」「この神の民」となることを契ったのでした。
奴隷解放は神の救いの完成ではありません。約束の地に入るまでの旅路が残っているからです。そこでどのように生きるべきか、ある種の型・形式が必要です。だから、神と民は「共に歩く」という約束を交わします。共に歩くことが救いの一種でもあります。また、「どのような形式をとって共に歩くか」の詳細をも決めなくてはなりません。出エジプト記25章以下は、詳細を定めた律法です。
25-27章は「神の宿る場所」の作成の仕方を定めています。「聖なる所」(8節)・「幕屋(mishkan)」(9節)の建設指示です。これらは移動式の神殿(主の家)です。こうして、神が民の真ん中に宿りながら旅をする形式が整います。そのために民からの「献納物」(2・3節)の一部が用いられます(1-7節)。
「わたし(神)は彼ら(民)の中に住むであろう」(8節)には特別な言葉が用いられています。単に「中」と言わずに「真ん中」と記され、また、通例の「住む/座る」という動詞ではなく、「宿る/臨在する」(shakan)という動詞が用いられています。この動詞から幕屋という名詞が派生したのです。
ここには聖書の神特有の性質が現れています。神は特定の場所にのみ居られるのではなく、礼拝する民の真ん中に宿る方です。実に主の家と呼ばれる神殿にさえも留まり続けるのではなく、仮に神殿がなくても聖所・幕屋さえ整えれば民と共に歩くことができるのです。
イスラエルの民は、バビロン捕囚期間に(前587-539年)、出エジプト記を含む「五書」を毎週の礼拝で朗読するという礼拝を始めました。祭具も神殿もありません。ただ神の言葉だけが中心の礼拝です。人類史上初の「正典宗教」の誕生です。礼拝する民の真ん中に宿る神への信仰は、虜囚の身で約束の地への帰還を望む民に、生きる希望を与え続けました。
旅するイエスを中心にした「神の国運動」や、特定の場所・建物ではなく交わりを「教会」と称するバプテストの源流が、ここにあります。JK