4月27日の「聖書のいづみ」では、出エジプト記25章23-40節を学びました。幕屋の中に置く「机」(23-30節)と「燭台」(31-40節)の仕様について定められた箇所です。
机は「供えのパン」(30節)を置くための祭具です。ヘブライ語でレヘム・パニームと言います。レヘムは「パン」という意味の名詞。ちなみにベツレヘムは、「パンの家」という意味の地名です。パニームは「顔」や「前」という意味の名詞です。「神の面前に常に置かれるべきパン」という意味を込めて、「供え」という翻訳があてられているのでしょう。「礼拝儀式は神の前での飲食である」という観念がここに含まれています。
キリスト教徒にとって、この机は主の晩餐台を想起させます。主の晩餐の源流は大祭司の執行する神への供食・神との共食です(レビ24章5-9節)。また、「命のパン」(ヨハネ6章48節)であるイエスを象徴する晩餐のパンの源流も、「供えのパン」にあります。
燭台は机を照らすための祭具です(37節。なお、26章35節も参照)。一本の主柱と、左右三本ずつの支柱が出ているという、独特の形状の燭台です(32節)。「純金」(24・31節)の直訳は「清い金」。精錬され不純物が除かれたものは清められたと理解されます。「一キカル」(39節)は約34.2kgですから、大きな燭台であることが分かります。
幕屋という暗い室内を照らす燭台は、イエス・キリスト、キリスト者、キリスト教会を想起させます。キリストは「わたしは世の光である」と自己紹介しました(ヨハネ8章12節)。キリストは唯一無比の光、闇を照らす真の光です。六本の枝を持つ燭台の真ん中の主柱です。
イエスは弟子たちや群衆を指して、「あなたがたは世の光である」と語り、その有様を「暗い部屋中を照らすために燭台の上に置かれた灯火」にたとえました(マタイ5章14-16節)。このキリストの言葉に基づいて、キリストに従う一人ひとりは、世の光です。幹であるキリストに連なる六つの枝に置かれた灯火です。
燭台は教会のたとえとしても用いられます(黙示録1章20節)。このたとえは、世界が闇に包まれていること、教会が少数者であることを前提にしています。教会は夜の屋外で用いられる燭台です。多数派や、力を持つ者たちが持つ常識を、教会は独特の光で照らし出し、批判的に吟味します。この独自の貢献をする時にのみ、教会は外の風に吹き消されない、良心の灯火となります。JK