6月1日の「聖書のいづみ」では出エジプト記28章1-14節を学びました。この箇所は大祭司の服装についての規定です。「聖なる服」(2・4節直訳)と呼ばれています。
聖なる服を着ることができる人は、モーセの兄アロンの家系の男性に限られています。祭司制度は性差別と民族主義/純血主義を前提としています。アロンの息子がここで四人列挙されていますが、長男ナダブ・次男アビフは、この後粛清されます(レビ記10章)。そのため、三男のエルアザルが実質的な長男としてアロンを継承します。ここにも、「後の者が先になる弟妹優先原理」があります。世襲は、聖なる服を引き継ぐ行為として記録されます(民数記20章28節)。
聖なる服と、その一部であるエフォド(エプロンないしは化粧回しのようなもの)には、最高級の素材が使われます。金、青、紫、緋色の毛糸、亜麻のより糸、ラピス・ラズリ(5-9節)です。「大祭司の服装は、神の栄光(臨在)を表すべき」と考えたからでしょう。
ラピス・ラズリという宝石にはイスラエルの全十二部族の名前が彫られており、エフォドの両肩ひものところに付けられていました(9-10節)。12節後半の直訳は、「そしてアロンは、想起のために、その双肩の上に、ヤハウェの面前で彼らの名前を担った」です。大祭司の仕事は、神の前で民全体の名前を記念し、民全体の罪を代わりに担うことにあります。
幕屋という場所が「天と地の結び目」であるのと同じように、大祭司という人間も「天と地の結び目」と考えられています。この観念が、「イエス・キリストは大祭司である」という信仰の土台となります(ヘブライ人への手紙5章1-5節)。
わたし自身はガウンなどの祭服を着る習慣をもたず、「バプテストは平服にこだわる」という論に与するものです。すべての人が祭司の役割を担うことができるからです。また、イエスも普段着で活動をしたことや、最後の裁判の際には祭服を身にまとった大祭司・裁判長と対峙したことも、理由ではあります。
自分自身の主義主張の一方で、「服装はその人の職業を含む人格を表現する」「人は見かけが9割」という事実をも、尊重したいと考えます。友人の牧師は、「阪神・淡路震災の際に、大勢の宗教者が葬りや弔いに必要とされた時に、ガウンの効用を実感した」と教えてくれました。どんな人にも「あの人は牧師/宗教者(=葬儀を頼める人)」と分かる服装は、社会的貢献が必要な場面に便利だったわけです。「天と地の結び目」をどのように表現すべきか。答えはまだ見つかっていません。JK