今週の一言 2013年5月30日

5/30の祈り会ではホセア書11章1-12節を学びました。

 「神は愛である」ということは全聖書を貫く主題です。旧約聖書の中でこのことを最も強く打ち出した部分はホセア書11章と言って差し支えありません。

 ホセアの描く愛の神は、保護者・育児従事者というイメージです。エジプトからイスラエル(神の子)を導き出し、幼子のイスラエルに荒れ野で歩き方を教え、日々の食事を与えて養う神こそ、愛の神なのです。いわゆる「男らしさ」にしばられない自由なイクメン(育児に励む男性のこと)、これは斬新な神概念です。

 たとえば8節は次のようにも訳せます。「なぜならわたしは神であり、男性ではない」。バアルという神は(2節)、「夫」や「主人」を意味する家父長制の神、家長・長男の神、男らしい神です。しかも五穀豊穣の神、経済の神でもあります。家事育児をまったく放棄して家の外で仕事だけをしている男性/させられている男性、その一方で同時に家の中で主人然として威張っている男性が、バアルの神と重なります。それは批判の対象です。

 ホセアの描く神観は、イエス・キリストの神観と呼応しています。有名な「放蕩息子のたとえ」は、まったく家長らしくもなく男らしくもない父親を神にたとえたものです。下の息子の言いなりに財産分与に応じ、家出をした彼を一人「女々しく」待ち続ける父の姿に、失われた者を惜しみ続ける神の愛が示されています。別のたとえによれば、子どもの素直な求めに、最善の形で応え、必要なものを与えて子どもを養う父親に神は似ています。神は求める前からわたしたち神の子どもたちの願いを知っている、非常に気の利いたイクメンパパなのです。

 そのような神をイエスは「アッバ」と呼びました。アッバというアラム語の意味は「お父ちゃん」といった意味の幼児語です。呼びかける側が小さな子どもであるという設定は、神が保護者・育児従事者であるということを言いたいがための工夫でしょう。「らしさ」を超える自由が神の愛の本質です。

 夫婦別姓を認めない旨の判決がありました。まだまだこの国には性差別が温存され法制度においても強化・維持されていることを実感します。働く女性のみが負う不利益、名前を奪われる不利益、それらを負わない自由を保証することは当然の権利です。「らしさ」に縛られない多種多様な家庭の登場が望まれます。(JK)