9/7今週の一言

9月7日の聖書のいづみでは、出エジプト記29章26-37節を学びました。世襲の祭司制度を維持するための仕組みを定める法律です。例えば、世俗の職業を持たない祭司がどのように生計を立てるのか、どのようにして次の世代に継承させるのか。任職の際の特別な食事や、祭壇の清め方などが示されています。

そこには鍵語があります。この段落には、「聖」/「聖所」/「神聖」(名詞)・「聖なる」(形容詞)・「聖別する」/「聖となる」(動詞)という単語が頻出しています。ヘブライ語ですべて同根(q-d-sh)の言葉です。衣食住すべての領域にわたって「聖なる人」とならなくては、「聖なる神」に奉仕する祭儀が行えないという観念があります。「聖なる神」に対応する「聖なる人」が祭司という存在であり、それは世襲によって保たれるというのです。

もし、この「聖なる人」が世俗的に堕落してしまったらどうなるのでしょうか。世俗の権力者である王が世襲である時に堕落しやすいように、宗教界の権力者である大祭司が世襲である時に同じように堕落・腐敗するものです。そして宗教上の権威が、社会的に弱い立場の人々への抑圧を後押しする時、世俗権力の支配はさらに醜悪なものになります。「ハンセン病患者を隔離する理由は、①感染の拡大を防ぐためであり、②さらに患者が宗教的に汚れているからだ」という場合の、②のダメ押しが、醜悪な後押しの一例です。世襲の祭司たちにとって、浄/不浄の判定権限を持っていることや、汚れた人が増えることは、自らの権力の源です。

ナザレのイエスは鋭くこの問題性に切り込んでいます。彼は、聖なる場所である神殿で、神殿への捧げ物によって潤っている祭司制度を批判します。聖なる服をまとった祭司とも対等に議論をします。祭司たちに汚れていると判定された「罪人」、徴税人、娼婦、ハンセン病患者とも触れ合います。聖なる人が汚いことに手を染めている現実を批判し、汚れているとされた人と肩を組んで共に生きることによって、全ての人が同じ神の子・人の子であることを示したのです。その結果イエスは大祭司によって死刑に処されたのでした。最も深い罪が十字架で示されています。

16世紀の「宗教改革」には、カトリックから見て「教会分裂」という負の側面もありますが、バプテストもまたプロテスタントの一派であることは歴史の厳然たる事実です。ルターが提唱し、バプテストが徹底していった主張に「万人祭司」があります。資格・身分を持った公務員の司祭ではなく、自分たち俗人の教会員の中から牧師を擁立することは、「聖なる人」批判から生まれた実践です。こう考えると他の職業を持ちながら牧師をすることは悪くもないのです。JK