10月5日の聖書のいづみでは、出エジプト記31章1-18節を学びました。「祭具を作る職人の任命」(1-11節)と「安息日規定」(12-18節)を併せて学びました。この二つの記事は一見バラバラの話題に見えますが、日本語の翻訳では分からないヘブライ語の単語レベルで、かなり対応関係があります。大雑把に言えば、天地創造の七日間と、上記二つの記事とは関連しています。
前半の職人は、六日間働きづめだった創造主の姿と重なります。「工芸」(3・4節)と訳されている単語は、「仕事」「労働」という意味の言葉です。この言葉は、後半の安息日規定においても「仕事」という翻訳で登場しています(14・15節)。
「作る」と訳されている(6・11節)単語アーサーは、創世記2章の天地創造で用いられています。だから文脈次第では、「創る」「造る」と翻訳して構わない言葉です。こう考えると、知恵と英知と知識をもって神聖な祭具をつくる職人ベツァルエルとオホリアブは、全世界を良いものとしてつくる知恵に満ちた神と重なるのです。
なお、祭具作り職人は、神の子である大工イエスの姿とも重なります。「神の霊」(3節)に満たされている物作りが神を啓示しています。
安息日を守る根拠は、出エジプト記版十戒(出エジプト記20章)と申命記版十戒(申命記5章)とで異なります。前者は「天地創造の七日目に神が休んだから安息日を覚えよう」と語り、後者は「奴隷を解放した神にならって、人間を解放するために安息日を守ろう」と語ります。わたしたちの箇所は、出エジプト記版十戒の立場を採っています(17節)。このように天地創造との重なり合いが直接に示されています。
安息日を守らなければ「死刑に処される(モート・ユーマート)」という厳しい法律用語が用いられています(レビ記20章ほか)。今日の死刑制度廃止論からは額面通り受け取ることはできません。「それほどに安息日に休むということを真剣に考えたら良い」という比喩として捉えるべきです。たとえば、善悪の知識の木の実を食べると「必ず死ぬ(モート・ユーマート)」という言い方はまったく同じ表現です(創世記2章17節)。アダムとエバは死刑に処されず、エデンの園から追放されました。それが、「民の中からネフェシュ(全存在)が断たれる」(15節)ということの意味であると解釈することができます。
同じネフェシュが動詞の形で用いられています。「主は・・・憩われた」(17節)とある箇所です。人間が真の意味で「生きるネフェシュ」となるために(創世記2章7節)、神が休んだように休む礼拝が、人間にとって必要となります。安息日は人のために立てられたからです。JK