10月26日の聖書のいづみでは、出エジプト記32章15-18節を学びました。「金の子牛事件」の続きです。
シナイ山頂を降るモーセは、中腹で待っていた従者ヨシュアと合流します。その手の中に二枚の石板があり、どちらの両面にも神の指による神の文字が書かれています。伝統的には、ここに十戒が書かれていたと考えられています。
ヨシュアは山麓の異変に気づきます。元々軍人であるヨシュアは、「戦闘の声」(17節)と誤解します。それを、モーセは正します。「勝利の唱和はない。敗北の唱和もない。わたしは歌の声を聞いている」(18節直訳)。モーセが聞いたのは、声を合わせて賛美歌を歌う声だったのです。礼拝指導者ミリアムによる賛美ではないことが、ヨシュアとモーセの感じた違和感でしょう。確かに山麓のイスラエルは、アロンの主導により金の子牛を中心にして礼拝行為を行っていました(19節)。
この物語は、二つの点で興味深いものです。一つは正典宗教の成り立ちに関するものです。正典宗教とは、「時代と場所を超えて通用する神の言葉として経典を奉じている宗教」のことです。ユダヤ教から始まり、キリスト教・イスラム教もそこに含まれます。この場面では素朴に、神が直接書いた言葉とされていますが(15節)、新約聖書においてはより正確に、「神の霊感を受けた信徒たちが書いた物」とされます(Ⅱテモテ3章16節)。それは書いた信者の「証」(信者の属する信仰共同体の捉えた神像)です。
正典としての聖書は「神の言葉」ですが、古典としての聖書は人類の共通財産・「人の言葉」です。さらに先輩信者が書いた証言集としての聖書は、今も信仰共同体を導く「礼拝共同体の言葉」です。聖書は、わたしたちの手の中にあるものですが、外から与えられているものでもあります。
二つ目の点は、会衆賛美の効果に関するものです。合唱には固有の力があります。人を魅了し、人々をまとめ上げ、集団を恍惚境に至らせることができます。うっとりと国家斉唱している姿に端的に表れている通りです。
宗教団体が宗教行為として合唱をすることにも同じ効果があります。バプテスト教会の特徴の一つに会衆賛美の強調があります。礼拝が悪い意味の「賛美歌付き講演会(説教偏重主義への批判)」とならない限りにおいて、会衆賛美は良いものです。礼拝の主要素たるべきです。しかしそれによって煽られたり画一化されたりしないように注意もしなくてはいけません。キリスト礼拝の名のもとに、「金の子牛」を賛美してしまう危険がありうるからです。 JK