今週の一言 2013年6月6日

6/6の祈り会ではイザヤ書6章1-13節を学びました。

 預言者イザヤ(南王国)はホセア(北王国)の年下の同世代人です。おそらく彼はアモス書を読んだことがあります。そしてホセアの活動を聞き知っています。アモスとホセアの預言活動に触発されて南王国で初めて預言書を書いたのがイザヤです。職業はエルサレム神殿の祭司であり、「王の顧問」という高級官僚です。

 イザヤの描く神は「超越神」です。神殿(直訳は「主の家」)という建物に入りきれないほど大きく、得体のしれない神的存在(セラフィム:天使)に崇められる「聖なる方」が神です。その神を見ることは死を意味するほどに恐れ多いと観念されます。この思想が後のユダヤ教における唯一神教の確立に寄与します。

 その一方でイザヤは「複数合議制」の神概念も持ち合わせています。課題に対して「われわれはどうしようか」と話し合う神です。ちなみに有名なバベルの塔の話でも、神は「われわれはどうしようか」と話し合い決断しています。この思想は、後にキリスト教会の三位一体の神という概念の根拠とされていきます。唯一の神が「われわれは」と言っているのだから、神は内部に複数性を持つと観念するわけです。「父・子・聖霊」の三つで一つの神と考えます。

 およそ教理というものは実生活に役立つ限りにおいて有用なものです。そうでなければ「能書き」や「御託」は絵に描いた餅=観念に過ぎないものです。

 人は謙虚さを持った方が人間らしい生活を送れます。そのために超越した聖なる神という唯一神教の教理は役に立つでしょう。「神のみが正しい」という考えは裏返せば、「わたしは間違えているかもしれない」という謙虚さにつながるからです。「常に自分が正しい」と言う人とは付き合いにくいものです。

 あらゆる葛藤や紛争は熟議によって解決されるべきという構えは、人間らしい生活に役立つものです。話し合いには意味があるし、力があります。暴力的な解決よりも優れているのからです。三一神という教理は、民主主義にとって役に立ちます。実際、一つの世界の中に複数の多様な価値観(東アジア儒教圏・東南アジア仏教圏・イスラム圏・キリスト教圏などなど)が混在しています。三一の神のあり方にならう時により良い市民社会が形成されると考えます。(JK)