11/2今週の一言

11月2日の聖書のいづみでは、出エジプト記32章19-24節を学びました。山の上から降りてきたモーセが、金の子牛を中心に輪舞している民を見て激怒する場面です。今までは、民とアロンの対話(1-6節)、主とモーセの対話(7-14節)、モーセとヨシュアの対話(15-18節)と続き、今回はモーセとアロンの対話が中心です。

このようにして、対話をする人々が必ず二者に限られていることが分かります。その原因は、この物語が元々口伝えであったことにあります。人間の記憶には限界があります。文字の無い口伝の場合、登場人物をすべて覚えることは難しいものです。そこで、自然と一場面での登場人物の数が限られます。副産物として、場面展開が早くなり、緊迫した物語の運びとなります。モーセはアロンに何を語り、アロンはモーセにどう答えるのか、聴衆は固唾を飲んで聞き入る。聖書が正典となる前の段階をもわたしたちは想像しなくてはいけません。語り手と聞き手の感動が文書化・正典化の原動力です。

意外なことに、主の怒りを宥めたモーセが激怒してしまいます。あろうことか、いただいたばかりの神の言葉が刻印された石板を投げつけて壊します(19節)。今日的にモーセの暴力行為は是認されるものではありません。こうした威嚇がアロンに影響し、心を開いた対話とならなくなっています。モーセは畳み掛けるように、「あなたが民の上に大きな罪をもたらした」とアロンを指弾します(21節)。アロンは萎縮します。弟のモーセに向かって、目上への敬語である「わたしの主人よ」と呼びかけるほどです(22節)。そして責任転嫁の言い訳に終始します。

アロンは、「この民が元々悪いことをご存知でしょう」とイスラエルの民のせいにし(22節)、「あなたも長期間留守にしていたでしょう」とモーセのせいにします(23節)。さらに、本当はアロンの手で作成した金の子牛が(4節)、あたかも自然発生したかのように言って、自己の責任を曖昧にしています(24節)。収賄を追求された政治家が、「配偶者のせい」「秘書のせい」「把握していない」「覚えていない」と言いつつ逃げ回る姿に似ています(創世記3章・4章も参照)。アロンは言い訳においても雄弁です(4章14節)。

ヘブライ語が苦手なモーセは黙ります。その沈黙が、指導者の負う責任の重さをあぶりだしています。どんなに民がわがままであっても、指導者は民に大きな罪を負わせてはいけません。民が自発的に選んだ過ちであっても、指導者は黙って担うべきです。 JK