11月30日の聖書のいづみでは、出エジプト記32章30-35節を学びました。金の子牛事件の続きです。
民の一部を粛清したモーセは、主のもとに再び戻ります。今までの経緯を考えると、どうしても神に報告をする説明責任がモーセには生じています。そもそも主が民の罪に激怒し、イスラエルの全ての民を滅ぼし尽くすことを決め、その決意をモーセが必死にとりなして翻意させたのでした(7-14節)。それにもかかわらず、モーセが意見を変えて民の中の首謀者3000人を殺してしまいました(15-29節)。モーセの言動には揺らぎがあります。首謀者格であり、留守中の責任者であるアロンを罰さないことにも揺らぎが感じられます。
主はこのモーセの首尾一貫しない行動を認めるのでしょうか。①「内部で殺し合うのは良くない」と戒めるのか、それとも、②「一部の粛清は間をとった無難な解決策だ」とうなずくのか、あるいは、③「アロンをはじめとして全員滅ぼし尽くすべきなのだ」とさらに重い罰を要求するのか。このあたりがモーセと主の面談の焦点です。モーセとしては、②の応答を期待して、「民の大きな罪を赦してほしい」と主に懇願をします(30-32節)。三回も繰り返される「そして今」(30・32・34節)という表現に、面談の切迫感・緊張感が表れています。
結論から言えば、回りくどい表現を用いて、主はモーセの行為を是認しました(33-34節)。物語の話者は、アロンの罪をきちんと指摘しますが(35節)、主はモーセと同調してアロンについて一切言及しません。言い方を換えると、主の言動もモーセと同じように揺らいでいます。
主は最初の自分の意見に立ち戻って、③を主張しても良いでしょう。中途半端な粛清ではなく皆殺しこそ、主の元来の主張だったからです。あるいは、主はモーセに説得されて誰をも殺さないという意見に変えたのですから、十戒の「殺してはならない」の精神に立って、①を主張しても良いでしょう。どちらかの方が、筋が通っています。
ある意味で主の言動は首尾一貫していません。聖書の神は人格的な神です。信者の論理的整合性によって交わりの継続や断絶を決めるのではなく、モーセという人格と常に共におられます。別の意味で主の言動は一貫しています。モーセに信をおいて、民の指導者としてのモーセと同伴するという立ち位置に揺らぎがありません。
インマヌエル(神我らと共に/我らと共なる神が)の意味について、深く思わされる物語です。 JK