12/7今週の一言

12月7日の聖書のいづみでは、出エジプト記33章1-6節を学びました。

教会暦の中で、なぜ待降節だけがこんなにももてはやされるのか、いささか理解に苦しむところです。他の重要な暦(受難節や復活節)がアドベントの影に押しやられていないでしょうか。歴史的にはクリスマスが設定されたのは、イースターやペンテコステよりもずっと後のことですから、キリスト教史の中で最も新しい祝日です。それなのになぜ。

「クリスマスが移動祝日ではない」「12月25日が北半球では冬にあたり、雪とモミの木が絵になる」。これらの理由だけでもないでしょう。

クリスマス物語の中の大きな使信に、「インマヌエル(神、われらと共に)」があります。この世界の真ん中に神の子が宿ることの恵みを言い表した言葉です。実に慰めと励ましに満ちた使信です。ロウソクの火を見ていると、自分の心の闇にイエス・キリストという灯火が点いたような感覚を覚えます。しかも神の子が赤ん坊であるというところが、なんとも可愛らしい。「クリスマスぐらいは教会に行ってみよう」と、素朴に思うのは自然です。

誤解を恐れずに言うと、成人男性の処刑と墓場からの復活という物語は、上記のクリスマスのほのぼの感に比べると、かなり恐ろしい読後感を与えます。

「神、我らと共に」ということは、大まかに言えば旧新約聖書を貫く使信です。神は、アダム・エバ夫妻を始め、アブラハム・サラ・ロト家族、ハガル・イシュマエル母子、さらにはエジプトを脱出したイスラエルの民と共に旅をする神でした。土地や建物のような不動産ではなく、人間と共に移動する神であるので、常に神は民の真ん中に居ると信じられていました。

ところが出エジプト記33章3節・5節は、太い芯棒のような「神、我らと共に」に痛烈な批判を浴びせています。神は、「わたしはあなたの真ん中に居ない」と民に公言します。「もし、わたしがあなたの真ん中に居ると、あなたたちのあまりの悪さのゆえに、わたしがあなたを滅ぼしてしまうから」というのが、神の言い分です。クリスマスの甘い幻想に一撃を与える聖句です。多様な文書からなる聖書は立体的・多角的・弁証法的に把握すべきです。

確かに、正しい神に同居してもらうと困るというのも真理です。自分が俗な人間であることを痛感するからこその恐縮です。「神が共に居る」ことと「自分の考えに神が賛成している」こととは別です。自分が神になってはいけません。わたしたちは「神の面前で・神と共に・神無しで」生きるのです。 JK