12月14日の聖書のいづみでは、出エジプト記33章7-11節を学びました。
モーセが宿営の外に「臨在の幕屋(会見の天幕)」を張り、そこで神と相見えて礼拝したという箇所です。モーセは民の代表/代理として、たった一人で「雲の柱」(9・10節)に表される神を礼拝します。唯一の例外は従者ヨシュアでありモーセに付き従っています(11節、申命記31章14-15節参照)。その一方で、神を求める者は誰でも臨在の幕屋に行くこともできたようです(7節)。
新共同訳聖書では訳出されていませんが、「そして以下のことがある」というヘブライ語表現が、短い段落の中に三回も繰り返されています(7・8・9節)。かろうじて、「のであった。」(7節)に原語の香りが残っています。聖書研究における単純なコツは、繰り返しの表現に注目することです。著者は、そのことを強調していると考えるのが自然です。
この表現の意味するところは、過去の一回きりの行為ではないというところにあります。つまり、常のこととしてこの段落で行われている行為はイスラエルの民の間で繰り返されていたのだということです。日常が問われています。
しかし、モーセが宿営の外に臨在の幕屋を張って礼拝をしていたということは、今までの記述と食い違います。臨在の幕屋は、宿営の真ん中にあるべきものです(27章21節、29章4・10・11・32節等参照)。食い違いを調整するためには、アロンが祭儀を行うための「臨在の幕屋」は宿営の真ん中にあり、モーセが神と出会うための「臨在の幕屋」は宿営の外にあったというように、「臨在の幕屋」が二つあったと考えなくてはいけないでしょう。
それは、「礼拝をする民と共に神がおられる」ということの二つの面を表しています。
一つ目の面は、神は民の真ん中におられるという理解です。宿営の中に居る神は教会の礼拝の只中に居る神です。バプテストの教会の場合は、大祭司アロンだけではなく、すべての信徒が祭司として祭儀を司るのです。
二つ目の面は、神は、神を求めて宿営の外に出る者すべてと出会うという理解です。「教会の外に救いなし」という古代教父の理解を斥け、モーセのような預言者になり、教会の外へと離れて出かける時にも神は随意に顕われます。意外な場所でばったり出会う神を、わたしたちはひれ伏し拝むのです。
宿営の外とは、わたしたちの日常生活であり、たった独りになれる場面であり、苦難に直面する人々に仕える現場です。教会の外でも雲の柱を拝みましょう。 JK