1/11の「聖書のいづみ」では出エジプト記33章12-17節を学びました。直前までの主との対話の中で、不安や不満を感じたモーセが食い下がって交渉を続けるという場面です。主なる神が、イスラエルのことを自分の民として認識しているのか、神が民を自ら先導する覚悟を持っているのかを、モーセは問いただします。
以前も似たような言葉遣いがありましたが、主はイスラエルのことを「自分の民ではなく、モーセが導いた民」と捉えようとします。それに対して、モーセは「イスラエルは神の民」と主張していました。ここにまた繰り返されています(13・16節)。神の民と神が共に歩むことは当然なのです。主は渋々と「私の顔が行く」(14節)と返答します。「顔」は、神の臨在を示す表現です。
「顔」も文字通りかなり具体的ですが、もう一つ興味深いヘブライ語の身体的表現が頻出しています。新共同訳では「好意を示す」と翻訳されている熟語です(12-17節に合計5回)。直訳は「目の中に恵みを見出す」です。主がモーセに好意を示す場合、「主の目の中にモーセが恵みを見出す」となります。
まずモーセと主が顔と顔とを合わせ、目と目を合わせながら対話をしているということが大前提です。この向き合う関係こそが、「名前において全人格的に知る」(12・17節)ということです。
次に、恵みというものの双方向性があります。恵みは一方的に上から下に与えられるという構図で考えられがちですが、そればかりではありません。むしろ同じ目線の出来事でもあります。恵みは、神の眼の中にあります。主の瞳・温かい眼差しそのものが愛を示しています。ところが、それは民が求めて見出そうとしない限り見つからないものです。神と視線を合わせなくては、神の恵みを見つけることができないので、その限りにおいて恵みはその人にとって存在しないのです。
わたしたちは人生の厳しさを味わうときに、「誰からも愛されていない感覚」に陥りがちです。そのような時にイエス・キリストの眼差しに気づき、主の目の中の恵みを見出すために振り向く行為が必要です。その人生の方向転換を悔い改めと呼びます。
旧約聖書のヘブライ語表現には身体的・具体的なものが多くあります。しばしば「旧約の神は人間臭い」「神観念として素朴で洗練されていない」と批判されますが、新約聖書との関係で言えば大きな利点を持っています。イエス・キリストが体を具えた「人となった神」だからです。ナザレのイエスにおいて実現した表現として読むことを勧めます。JK