1/18の「聖書のいづみ」では出エジプト記33章18-23節を学びました。先週と同じく、主とモーセの対話が続きます。先週は「顔」という言葉が神の臨在を示す表現であることを紹介しました。今週も「顔」が登場します(20・23節)。「人が直接神を見ると、死んでしまう」という観念を説明するために、「顔」という単語が用いられています。古代人の感性を伝えるこの観念は旧約聖書に広く散見されます(創16:13、創32:31、出3:6、出19:21、士6:22、士13:22、王上19:13)。神は畏敬の対象なのです。
さらに今回は顔だけではなく、神の臨在を示す別の表現も登場しています。それが、「栄光」(18・22節)と、「名」(19節)です。旧約聖書の神学思想史を考える上で非常に重要な言葉です。この二つの言葉を神の臨在の婉曲表現として用いることによって、イスラエルの民はバビロン捕囚という破局に際しても、主への信仰を失わなかったからです。
紀元前587年、新バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされます。その際に、王宮も神殿(直訳「主の家」)も徹底的に破壊され、王族・祭司ら上層階級もバビロンに連行されました。国家神であれば国家(王統・祭司制度)の滅亡と共にその神も死ぬのが常の道です。しかし、ユダヤ人たちは、「主の栄光はバビロン捕囚の際に神殿からバビロンの方に移動し、再び戻ってくる」と考えました(エゼ11:23、同43:2)。また、「主の家には、主の名が置かれていただけに過ぎない」とも考えました(申12:5)。それゆえに聖書の神は死なず、生ける神への信仰が生き残りました。
こうして、主の家がなくても、街々に建てられた会堂に集まる礼拝共同体と共に「民と旅する自由の神への信仰」が確立します。新約聖書の時代、このユダヤ教徒の会堂を用いてキリスト教が布教され、同じ「一つの場所に縛られない神」という思想に基づいて街々に教会が建てられてきました(マタ18:20、ルカ17:21)。それこそ、十字架で殺された後に同時多発的に見られた復活の主イエスへの信仰、また、信者たちに分与されたイエスの霊である聖霊への信仰です。一人一人が「主の家」となりうるのです(Ⅰコリ6:19-20)。
ナザレのイエスという名で示された神は、自由の意思をもって民を愛する神です。「恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」方です(19節)。自分への絶望、人生への絶望、社会への絶望の淵に立つ者を、岩の裂け目に喩えられる「逃れの場所」に避難させ、掌で覆い隠して手当し・癒し、後ろ姿でさりげなく人生を導く方です(22-23節)。この方こそ「生ける者」の神です。JK