3/8の「聖書のいづみ」では出エジプト記34章18-20節を学びました。「祭儀的十戒」の第三戒です。ここからすべて倫理的十戒(20章)と内容の異なる、細かい祭儀についての規定が続くので、祭儀的十戒と呼ばれます。過越祭/除酵祭の規定です。内容的には13章1-10節と23章15節の焼き直しです。
文体の特徴として、倫理的十戒と異なり禁止命令ないしは否定文ではなく、肯定文が続きます。しかも、「安息日を覚えること」、「両親を敬うこと」のように不定詞ではなく、祭儀的十戒の場合は未完了の動詞が用いられています。「~せよ」という明確な「命令」ではなく、せいぜい「~するように」という「指示」にとどまる言い方です。規定のゆるさは、その起源の古さを示唆します。
第三戒は、「過越祭(除酵祭とも呼ぶ)」についての規定。そして過越祭は、「取り入れの祭(七週の祭り、五旬祭とも呼ぶ)」、「仮庵祭」と並ぶユダヤ教三大祭の一つです。過越祭の起源には二つの源流があると言われます。一つは遊牧民の行っていた動物犠牲の祭礼です。「長男は神に属するので神に奉献されるべき(祭礼の中で殺されるべき)」という観念が、その風習を支えています。「初めに胎を開くものは、すべてわたしのものである」(19節)。
もう一つは農耕民の行っていた収穫感謝の祭礼です。古代人は酵母を「パンを膨らませるありがたいものだけれども、それだけに危険な魅力を持つもの。功罪ある混ざり物」と両義的に観念していました。そのために、収穫を祝うときにあえて「種なしパン」という宗教的に純粋なものを祭礼の中で食べていたのです(18節)。
この二つの源流が出エジプトという奴隷解放の事件と結びつけられ「信仰共同体の共有する記憶」に昇華されます。なぜ過越祭に羊を殺すのかは、「主が、あの夜羊の血を塗ったイスラエルの家だけを過ぎ越し、エジプトの長男を撃ったことを思い出すため」と説明されます(13章14-16節)。なぜ過越祭(除酵祭)で種なしパンを食べるのかは、「エジプトから急いで逃げたあの夜、パン種を入れてパンを膨らませる時間がなかったことを思い出すため」と説明されます(12章39節)。毎年の儀式の中で、救いの歴史を記憶し続け、歴史に意味付けを行う作業を「歴史化」と言います。聖書は、信仰共同体によって歴史化され編纂された「神の民の歴史」です。編纂目的は祭礼、つまり礼拝を執り行うためです。
この「歴史化」の伝統の流れにキリスト教も乗っています。教会は新約聖書を作成し、旧約聖書と合体させました。過越祭に、「神の長男イエス・キリストの十字架刑死」という意味を付け加えたのです。 JK