「聖書のいづみ」は夏休みに入りました。
キリスト教会独自の使命や役割は、現代の日本社会において何であるのかについて考えます。結論を先に言えば「真の休みを提供する」ことが、教会の役割です。そうであれば人々は教会を必要とすることでしょう。
今まで教会は人々を必要とし、人々を獲得しようと努力してきました。敗戦後宗教ブームがあり、伝道プログラムを企画し宣伝すれば大勢の人々が教会を訪れました。教会学校にも子どもが溢れました。教会の企画力・実行力が人々を獲得したかのように見えましたが、真実は逆かもしれません。その当時の日本社会の人々が、食べ物や文化(英語・音楽・西欧の雰囲気・倫理思想等)を獲得するために教会を必要としていたのではないでしょうか。
上記の経緯から「伝道プログラムをすることが教会の使命・役割である」と考える伝統が形成されました。そのことのもたらす弊害に教会は今苦しんでいるように思えてなりません。一言で言えば「疲れる」のです。教会に関わることが。そしてそれゆえに、人々から教会は必要とされなくなってきています。
まず体が疲れます。日本バプテスト連盟の教会は長時間教会員を拘束します。教会学校や伝道プログラムを企画・運営・実施するために礼拝の前後に会議が非常に多くなります。礼拝中に、昼食の段取りや次の会議のことを考えなくてはいけません。平日の労働よりも忙しい人さえいます。
心も疲れます。伝道プログラムに投じた費用に対する人数獲得の効果を問う場合、資本主義と同じ考え方です。平日の受験勉強や労働と同じ考え方に日曜日も染まっているので、心が洗われません。
能力主義により企画運営の会議が支配される場合もあります。また日本社会は全般的に会議による合意形成が苦手です。一人の話者の時間独占や、全体の堂々巡りが教会の会議においても起こる時に、人々は失望します。
しばしば仕事を持たない女性が教会の実質的担い手とされるのは、教会の拘束時間の長さに原因があります。しかし意思決定機関には就労している男性が多いというねじれがあります。男女共同参画を一応謳っている社会よりも倫理的に劣っています。これでは人々、特に働く女性たちに見捨てられるでしょう。
教会は人々にとって「余暇」の一部にしか過ぎません。そのことを率直に認め、「意義のある余暇としての礼拝」を打ち出すことに活路があります。世での疲れを落とす休憩所としての教会像を再構築しなくてはいけないのです。(続く)JK