「余暇の神学」は、礼拝を余暇として提示することと、人々を拘束しない教会形成を旨とします。つまり、礼拝と最低限の自治のためにしか、人々は教会のために働かないという交わりの形成です。「教会が仕事を創出し、人々に義務を課し、人々を忙しくさせてはいけない」という価値判断がそこにあります。
教会はまったくの任意団体です。キリストに贖われ解放され自由にされた人は、他の誰からも支配されない者です。好きな時に礼拝に出席し、好きな時に欠席しても何も咎められる筋合いはありません。その人の信じるキリストだけがその人の良心の主です。行きたくない礼拝には行かなくて良いし、礼拝の中でしたくない奉仕をしない自由が保障されるべきです。ましてや礼拝以外の「周辺的ことがら」に関知しなくても問題にはなりえません。「奉仕」という宗教用語で表現しても、余暇の程度を超える労働量は余暇にふさわしくないものです。
献金についても同様です。平たく言えば、それは教会という組織の維持会費です。まったくの任意の寄付ですから金額の程度について他人が定めることはできません。政治・芸術・宗教等にかけるお金は、やはり余暇の範囲でなされるものでしょう。
余暇の神学は、日本バプテスト連盟が70年間大切に継承してきた教会形成の手法や、それを支える神学的主張と対峙します。
日本バプテスト連盟においては、米国発の「スチュワードシップ」という言葉が重視されてきました。その骨格は、一旦教会員となった人に対する、①日曜日の礼拝厳守と、②全収入の十分の一を献金することの奨励です。①は、17世紀英国で発生した時点で、バプテストが非合法の結社であり、礼拝を命懸けで守っていたことを基盤に主張されます。②は、同じくバプテストの発生時、彼ら彼女たちが公務員である司祭を牧師として受け入れることを拒否し、自分たちの教会の中から牧師を雇用したことを基盤に主張されます。
「主日礼拝厳守・十一献金」は、理由はどうあれ、個人の時間と財産の使い方に指図をしています。かなり厳しい、会員維持のための要件を課した結社と言えます。これを支えるのが、「契約共同体として教会を捉える」という神学です。殉教も厭わない血盟団としての教会像。例えば、初代バプテストは「主の晩餐」の参加資格をその教会の教会員のみに限っていました。
17世紀英国の「契約神学」や、20世紀米国の「スチュワードシップ」推奨が、21世紀の日本社会で真の休みを提供できるのかが問われています。組織が個人を支配している図に憩いがあるのでしょうか。 (続く)JK