9/27の「聖書のいづみ」は、サムエル記上2章12-17節を学びました。
12節と13節を新共同訳は区切ります。「エリの息子たちはならず者で、主を知ろうとしなかった。この祭司たちは、人々に対して次のように行った。」
しかし、岩波訳のように二つの文を繋げる方がより良いと考えます。申命記18章3節を参考にした私訳は次の通りです。「エリの息子たちはならず者。彼らは主と、祭司たちが人々から〔受け取る〕規定とを、知らなかった」。要点は、「エリの息子たちは主と規定とを知らなかった」とする点と、「に対して」という前置詞に一文字加えて「から」という読みを採用している点(申命記18章3節と同様に)、さらに、「規定」(ミシュパート)という名詞を訳出する点です。
新共同訳は、ミシュパートを「習慣」と採って、「行った」というように訳しているようです。しかし、ここはミシュパートという単語の重要性を鑑みて、名詞として訳出したほうが良いでしょう。ミシュパートは、預言者たちもしばしば持ち出す神学用語です。語源的には、「裁く」(シャファト)から派生した名詞です。だから「公正な裁判による統治」を含意した「社会正義」という意味です。ちなみに「士師」(ショフェト)も、同じシャファトが語源です。
イスラエルの統治は法治主義なのです。主を知ることと、主の定めた規定を知ることとは並立して表現されえます。人治主義は、統治者の個性に左右されます。それに対して法治主義は、誰が統治しても間違えない道幅を規定します。律法は境界線を定めるガードレールのようなものです。
実際13-16節で、祭司の従者たちが行っていることは、律法違反の不法行為です。レビ記には、祭司の取り分である肉の部位は指定されています(レビ記7章34節)。また、脂肪は必ず燃やさなくてはいけないのです(レビ記3章3-5節、16-17節)。一部の都合で全体のルールを曲げるならば、ルールは意味をなくします。
サムエル記は世襲制に批判的です。神殿城下町シロの権力者・祭司エリの二人の息子は、祭司としてふさわしくありません。エリの後継者は、彼の従者サムエルとなります。もう少し厳密に言えば、世襲制に基づいている王・祭司の思想と、世襲制から自由な士師・預言者の思想が、サムエル記に入り混じっています。
どちらの思想が「神の法」をないがしろにしやすいか。皮肉なことに政教一致しやすい「王・祭司」の方が、神政政治の名のもとに、神の法を軽んじた人治主義に堕しやすいのです。イエスは、「神への愛・人への愛」という憲法をもって、「法の支配」を訴えました。 JK