11/1の「聖書のいづみ」は、サムエル記上2章35-36節を学びました。先週の箇所同様にこの箇所も祭司エリ自身とは直接関係のない将来についての預言です。おそらくソロモン王と、彼の側近である大祭司ツァドクのことを35節は指しています。36節は、この両者に失脚させられた、エリの玄孫のアビアタルの境遇を、誇張して表現しているように読めます。以上列王記上2章を参照のこと。
この全体の見取り図を持ちつつ、鍵となる単語を中心に説明します。
新共同訳聖書が、「忠実な祭司」「家を確かなものにしよう」(35節)の直訳は、「信実な祭司」「信実な家を建てよう」です。どちらも同じ動詞アマンの受動分詞を形容詞のように用いています。「信実」は神学用語です。神の性質を表し、「信頼に値する誠実さ」を意味します。動詞アマンから名詞アーメンが派生していることも、考慮に値します。信実な神が世襲の祭司制度を打ち立てたのだから、祭司たちはその職務を「アーメン」と受け取り、信実に神に応えることが求められます。
信実な神に応える信実な生き方は、「わたしの油注いだ者の前を歩む」ことと表現されています(35節)。「油注いだ者」(ヘブライ語メシア)を、ギリシャ語訳は「キリスト」と訳します。厳密にはソロモンが油注がれる就任場面は聖書の中には記載されていませんが、ここではソロモン王がメシアと呼ばれていると考えます。はるかにイエス・キリストを指さした表現です(マタイ1章6節)。
「歩む」と訳されているヘブライ語動詞ハラクには、「過ごす/暮らす/生きる」の意味もあります。生き方が問われています。しかも、動詞の談話態は「再帰」という自分自身に対する行為であることを示しています。その場合、ハラクは「自由に歩く/あてどなく歩く/散歩する」という意味を持ちます。歩くことそのものが目的であるような場合です。例えば創世記3章8節の神の歩き方や、創世記6章9節のノアの生き様に、この談話態が用いられています。「神に応え神と共に生きる生活」の実例と言えます。
10月31日はルターによる宗教改革開始500周年でした。彼の貢献の一つは「万人祭司」という主張です。ラテン語を操れる司祭のみが行う礼拝から、自国語の聖書朗読・会衆賛美・説教等をひとりひとりの会衆が祭司として担うという実践は、ここから生まれました。バプテストは万人祭司をさらに徹底させようとしているプロテスタントの一支流です。「祭司の仕事の一つに就かせてください」(36節)と常に祈りたいものです。 JK